juraian’s blog

東アジア史、ナショナリズム、反日言説に関する個人研究

東アジアの定期市 (1) 朝鮮

善生永助『朝鮮の市場』朝鮮總督府,1924

 韓国における植民地近代化論の台頭 でも述べたように、「停滞性論」は代表的な植民史観のひとつで、福田徳三は「20世紀初頭の朝鮮は日本で言えば9世紀末〜12世紀初頭に該当する」と主張した。日本より1000年遅れていたかはともかく、20世紀初頭の朝鮮経済が後進的だったのは間違いない。これは貨幣経済の未発達、紙幣や為替の不在、運輸交通網の未整備などに現れていたが、日中では消えつつあった定期市(日限市)が健在だったことも後進性の標識のひとつだった。

 善生永助(1885~1971)は朝鮮総督府嘱託として調査資料シリーズをせっせと執筆した。

朝鮮の風水伝説 朝鮮の妖怪伝説 では同じく朝鮮総督府嘱託だった村山智順の著作を紹介したが、民俗や宗教といった人文科学方面を担当した村山に対し、善生は社会科学方面を担当した。ただしここで紹介する『朝鮮の市場』『朝鮮の市場經濟』の「市場」は、経済学の基本概念である「しじょう」ではなく、より個別的な取引の場である「いちば」を指している。

 善生永助によると、併合当時の朝鮮の主要都市以外では常設店舗は稀で、商業の大部分は物々交換時代の遺物である在来市場で行われていた。朝鮮の市場は、(1)普通の在来市場、(2)多数の業者が屋内で穀物・食糧品を販売する市場、(3)委託を受けて貨物を競売する市場、(4)同業者が集まり見本や銘柄で穀物を売買する市場の4種類あったが、大部分は(1)の在来市場だった。在来市場は各府郡に平均5〜6箇所あり、多くは5日に1度開市した。市街地には毎日開市するものあり、薬令市のように年1〜2回しか開市しない特殊な市場もあった。

 市場に関する最古の記録は新羅炤知王12(490)年に慶州に市場を開いたというもので、東市典・西市典・南市典という役所が市場を監督した。『増補文献備考』には「新羅の市場では婦女が商売をしている」という引用がある。1123年に来訪した徐兢の『高麗図経』によると、開城の市場に常設店舗はなく、貨幣を用いず布や米で支払ったという。日朝中から見た日朝中 (6) 徐兢『高麗図経』 に示した該当箇所を改めて引用すると、次の通りである。

 

蓋其俗無居肆。惟以日中爲虚。男女老幼官吏工技。各以其所有。用以交易。無泉貨之法。惟紵布銀鉼。以准其直。至日用微物。不及疋兩者。則以米計錙銖而償之。

けだしその風俗に常設店は無いのであろう。ただ日中に市をなすだけである。男女老幼、官吏、職人の各々がその所有物でもって交易している。金銭の法は無い。ただ紵布、銀瓶でもってその値に準えている。日用雑貨で匹数や重さの及ばないものには、米で重さを計って償っている。

 

 李朝時代に京城鍾路に官設廛鋪が設けられたのは第2代定宗(在位1398〜1400年)の時で、長さ800間の左右行廊があったという。日朝中から見た日朝中 (9) 『世宗実録』 で紹介した通信使朴瑞生の報告によると、朝鮮では1429年時点でもまだ貨幣は普及しておらず、京城といえども市場の設備は大したことなかったことがわかる。『京都雜誌』によると東大門内の蔬菜市場、南大門外の魚類市場が最も賑やかだった。京城以外の市場は郷市と呼ばれ、月6回開市するのが常例だった。『増補文献備考』によると、全鮮を通じて約900の郷市があった。

 山本進によると朝鮮で貨幣経済が普及したのは18世紀で、12世紀に宋銭が大量に出回るようになった日本よりだいぶ遅い。銀は日本から流入する丁銀に依存していたが、18世紀中盤にそれが途絶すると国産の磺銀が流通するようになった。もともと銅銭も銀貨も軍事的備蓄の性格が強かったが、18世紀にようやく一般に普及した。日朝・清朝貿易では部分的に信用取引が行われたが、本格的な為替決済制度は発展しなかった。国内では布貨が19世紀にようやく消滅し、銅銭専用になった。18〜19世紀朝鮮における現物貨幣から銭本位制への移行は、日本の中世、中国の宋代の水準に該当する。つまりこの側面から見れば、福田徳三の「平安時代並み」はさすがに言い過ぎということになる。

 

引用文献

善生永助『朝鮮の市場』朝鮮總督府,1924.

善生永助『朝鮮の市場經濟』朝鮮總督府,1929.

山本進『大清帝国と朝鮮経済−開発・貨幣・信用』九州大学出版会,2014.

徐兢(朴尚得訳)『宣和奉使 高麗図経』国書刊行会, 1995.