juraian’s blog

東アジア史、ナショナリズム、反日言説に関する個人研究

東アジア比較文学史試論 (3)

日本・朝鮮文学の紹介

 中国人から見て朝鮮人は野蛮人、日本人は禽獣なので、近代以前に日朝の作品を読んだ中国人は皆無に近かっただろう。錢稻孫(1887〜1966)による『源氏物語』の中国語訳が出たのは1950年代で、アーサー・ウェイリー(1889〜1966)による英語訳(1925〜33)よりだいぶ遅い。韓国語訳に至っては、1999年に出た3巻本の抄訳が最初らしい(聯合ニュース 2007-01-15)。

春香伝』は半井桃水(1861〜1926)が1882年に日本語訳を大阪毎日新聞紙上に連載し、ホレイス・ニュートン・アレン(1858〜1932)が1889年に英訳している。1936年にはロシア・バレエ団がモンテカルロで『春香伝』を上演した。ロシア人が中国と朝鮮の区別がつくはずがないので、さぞかし中華風の衣装やセットで演じられただろう(東亜日報2006-11-02)。中国にいつ紹介されたかは知らないが、Wikipedia中国語版によると1954年に黄梅劇(湖北省の伝統歌劇)で『春香伝』が上演されている。京劇や粤劇といった他の伝統歌劇でも『春香伝』は盛んに演じられているが、朝鮮風味をどの程度残しているかは知らない。

 

西洋文学の紹介

 西洋文学の翻訳は、日本では16世紀に日本に滞在したカトリック宣教師によってイソップ寓話等が翻訳された。中国に滞在した宣教師も、マテオ・リッチ(利瑪竇、Matteo Ricci, 1552-1610)、パントーニャ(龐適我、Didace de Pantoja,1571-1618)、トリゴー(金尼閣、Nicolas Trigault, 1577-1628)らがイソップ寓話を翻訳している。なぜ宣教師がイソップ寓話をやたら紹介したがるのかは知らない。

 東アジア人が主体的に西洋書を翻訳出版するのはハードルが高いらしく、『解体新書』(1774)が最初と思われる。清国人による翻訳はずっと遅く、永田小絵が言及している中ではJoseph HavenのMental Philosophy (1857)を訳した顔永京(1838〜98)の『心霊学』(1889)が最も早い。これは翻訳者の養成が日本よりずっと遅かったためである。日本では19世紀初頭にはオランダ語を読める者がゴマンとおり、1811年には幕府天文方に蛮書和解御用が設置された。開港後の1856年には蕃書調所に改編され、300人以上の学生がオランダ語・英語・フランス語・ドイツ語等を学んでいた。これに対し清国では、1862年の京師同文館設立によってようやく外国語教育が始まった。顔永京のように個人で渡米した者を除けば、公費留学生は1870年代から派遣が始まった。

 中国・日本の開国後も朝鮮は「隠者の国」として開国を拒んでいたせいで、朝鮮人の翻訳者が現れるのはさらに遅かった。1882年の米朝修好通商条約の締結時も、ヨーロッパ語ができる朝鮮人がいなかったため交渉を清国人に丸投げするしかなかった(姜在彦 2008)。条約締結時に米国側の通訳をつとめた尹致昊(1865〜1945)は、1908年に『イソップ寓話』をハングル訳した。

 西洋書を翻訳する目的は科学技術や政治制度の導入だったから文学は後回しにされたが、それでも日本では1850年に黒田麹廬(1827〜92)が『ロビンソン・クルーソー』をオランダ語から重訳している。英米文学に限ると1880年に片山平三郎(1848〜1912)が『ガリバー旅行記』を、1897〜98年に敬天牧童(1875〜1968)が『アンクル・トムの小屋』を日本語訳している。シェイクスピアの最初の日本語訳は、1883年の河島敬蔵(1859〜1935)による『ジュリアス・シーザー』とのことである。

 清国では『ガリバー旅行記』だけは日本より早く、1872年の『申報』に4日間だけ連載されたが、全訳は1903〜06年の『繍像小説』に連載されたものが初らしい。『アンクル・トムの小屋』は魏易(1880〜1930)が1903年に訳し、『ロビンソン・クルーソー』は銭唐跛少年という謎の人物によって1902年に訳されている。シェイクスピアは1904年の『澥外奇譚』に戯曲10編が含まれたのが最初らしい。朝鮮では詩人の崔南善(1890〜1957)が『ガリバー旅行記』(1908〜09)、『ロビンソン・クルーソー』(1909)、『アンクル・トムの小屋』(1912)を翻訳出版した。シェイクスピアは日本併合後の1920年代に日本語から重訳されたのが最初らしい。

 

開化期の東アジア文学

 開化期の日本では西洋文学の翻訳書出版ブームを経て、坪内逍遥1859〜1935)が理論書『小説神髄』(1885)を書き、二葉亭四迷(1864〜1909)が初の口語体小説『浮雲』を書いた。これらを契機に、尾崎紅葉(1868〜1903)、幸田露伴(1867〜1947)、森鴎外(1862〜1922)、島崎藤村(1872〜1943)、夏目漱石(1867〜1916)といった文豪が続々と登場した。女流作家では樋口一葉(1872〜96)が活躍したが夭逝した。歌人与謝野晶子(1878〜1942)は小説や童話も書いた。あまり知名度は高くないが、Wikipedia日本語版の「19世紀日本の小説家」のページには、大塚楠緒子(1875〜1910)、小口みち子(1883〜1962)ら数人の女流作家が載っている。1910年代後半には「大正労働文学」と呼ばれる一連の作品が現れ、日本のプロレタリア文学の前史と位置づけられる。より自覚的なプロレタリア文学運動は、1924年創刊の『文芸戦線』誌上で展開された。小林多喜二(1903〜33)や徳永直(1899〜1958)といった代表的なプロレタリア作家の活動は、昭和に入ってからのことである。

魯迅(1881〜1936)

 大塚秀高によると20世紀初頭の清国では官吏の言行を批判する「譴責小説」というジャンルが流行し、李宝嘉(1867〜1906)の『官場現形記』(1903〜06)、劉鶚(1857〜1909)の『老残遊記』(1907)といった作品が現れた。これらは『儒林外史』を踏襲した伝統文学で、西洋近代の影響を受けたものではない。伝統否定と啓蒙主義は、陳独秀(1879〜1942)が1915年に創刊した『新青年』誌上でようやく盛んになったが、これは福澤諭吉(1835〜1901)の『学問のすゝめ』(1872)より半世紀近く遅れている。1918年には魯迅(1881〜1936)が「狂人日記」を『新青年』誌上で発表し、中国文学に革命を起こした。Wikipedia日本語版の「中国の女性小説家」ページにある者の中で最も初期に活躍したのは謝冰心(1900〜99)で、短篇小説「両箇家庭」(1919)、「別れ」(1931)等を書いた。次いでプロレタリア作家の丁玲(1904〜86)が短篇「霞村にいた時」(1940)、長篇『太陽は桑乾河を照らす』(1948)等を発表した。

李光沫(1892〜1950)

 金台俊によると朝鮮における新小説のパイオニアは李人稙(1862〜1916)で、日露戦争後に『白鷺洲江上村』(1906)、『血の涙』(1906〜07)等を親日右派系の新聞に連載した。1919年の三・一運動後の代表作家は李光沫(1892〜1950)で、詩人の崔南善とともに朝鮮文学の改革者だった。ちなみに今日の韓国では、李人稙・李光沫・崔南善の三人とも親日派として罵倒されている。女流作家では金明淳(1896〜1951)が1920年代に立て続けに小説を発表したが、その後東京で作品も書かず貧困と醜聞に苦しんだ。他に日本時代に作品を発表した女流作家には、羅蕙錫(1896〜1948)と崔貞熙(1912〜90)がいた。プロレタリア文学は金基鎮(1903〜85)の「赤い鼠」(1924)が嚆矢となり、主人公が不意に死んだり革命に走ったりする小説が続々と書かれた。朝鮮プロレタリア芸術家同盟(Korea Artista Proleta Federacio; KAPF)は1925年に結成され、1928年に結成された全日本無産者芸術連盟(Nippona Artista Proleta Federacio; NAPF)に先行している。欧文はエスペラント語だそうである。ちなみに中国左翼作家聯盟は、日本の影響を受けて1930年に創設された。

 

引用文献

大塚秀高『中国古典小説史——漢初から清末にいたる小説概念の変遷』筑摩eブックス,2024(1987年初出).

永田小絵「中国清朝における翻訳者及び翻訳対象の変遷」『通訳研究』6,2006.

金台俊(安宇植訳注)『朝鮮小説史』平凡社東洋文庫,1975(1933年初出).