juraian’s blog

東アジア史、ナショナリズム、反日言説に関する個人研究

宗主国日本の記憶——任文桓①

親日派官僚、任文桓

 鄭大均は任文桓の『愛と民族』(1975)がお気に入りらしく、自著の中で盛んに引用し、しまいには『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』と改題して解説を付けて復刻出版したことは任文桓年譜 で触れた通りである。年譜にある通り任文桓は東京帝大法学部在学中に高等文官試験に合格し、朝鮮総督府官僚として働いた。その間龍仁郡守や殖産局事務官をつとめ、江原道鉱工部長に発令されたところで終戦を迎えた。『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』によると、1948年9月に反民族行為特別調査委員会の特警隊員が尋ねてきて任文桓を連行しようとした。逮捕の基準を問うと「高等官三等以上と勲六等以上を貰った者は起訴の対象になる」とのことであった。任文桓は「いずれの条件にも該当しない」と答え、押し問答の末に連行を免れた。

 故盧武鉉大統領(2003〜08年在任)は親日派清算が中途半端だったことを遺憾とし、親日反民族行為真相糾明委員会を発足させ『親日人名辞典』を編纂させた。朝鮮総督府官僚は郡守など高等官以上が含まれることになったため、任文桓も親日派認定された。

 

https://www.nocutnews.co.kr/news/70746

해방 이후 사실상 첫 ''친일인사'' 명단 발표 [노컷뉴스 2005-08-29]

농림부장관을 지낸 임문환씨는 조선총독부 광공국 서기관 등을 역임해 명단에 올랐고, 전 한국은행 총재 전예용씨도총독부 사회과장을 역임한 전력으로 친일 인사 명단에 수록됐다.

農林部長官をつとめた任文桓氏は朝鮮総督府鉱工局書記官等を歴任し名簿に上がり、前韓国銀行総裁の全禮鎔氏も総督府社会課長を歴任した前歴で親日人士名単に収録された。

 

 趙甲濟元『月刊朝鮮』編集長は、「農林部長官を経た任文桓回顧録を読破中」だとして、自身が『月刊朝鮮』1984年8月号に書いた「朝鮮総督府高官のその後」という記事を紹介した。その中で趙甲濟は任文桓が書いた「東京帝国大学法学部卒業者十人の運命」(『友邦』1980年9月1日付)を引用し、任文桓と同時期に東京帝大法学部に在籍していた朝鮮人10人全員が高等文官試験に合格し、ひとりを除いて朝鮮総督府官僚になったと紹介している。10人のうち晉炎鍾は日本が降伏した直後病死し、金熙德も朝鮮戦争中に病死した。張壽吉は朝鮮戦争中自ら越北し、李忠榮は拉北されたまま消息が途絶えた。張徹壽も朝鮮戦争で拉北され、スパイとして南下したが自首して釈放された。慶北大教授に在任中、過飲による肝臓炎で1956年に死亡した。朴成大や康明玉も朝鮮戦争後まもなく死んだ。任文桓以外に60歳まで存命したのは張暻根と高秉國だけで、張暻根は李承晩政権の内務部長官等をつとめたが朴正煕政権下の1960年に逮捕され、保釈中に日本に密航し亡命生活を送った。1977年に帰国したが、翌年病死した。高秉國は1956年に韓国法学院が設立されると副院長に就任し、1976年に死亡するまで韓国の法学教育と法曹界の重鎮として活躍した。趙甲濟は親日派官僚を民族的反逆者として弾劾しろという輿論に迎合せず、貴重な人材を活用しようとした李承晩や朴正煕の見識を讃え、次のように結んだ。

 

http://www.chogabje.com/board/view.asp?C_IDX=45129&C_CC=AZ

여섯 번 國籍을 바꾼 한 엘리트 관료의 回想 [조갑제닷컴 2012-05-20]

任文桓 씨처럼 식민지 관료 생활을 하면서 日帝와 동포 사이에서 곡예사 역할을 할 수밖에 없었던 이들의 勞苦를 기억함과 동시에 이들이 그때 익힌 기술을 국가 발전에 쓸 수 있도록 도와준 이승만과 박정희의 안목에감사하지 않을 수 없다.

任文桓氏のように植民地官僚生活をして日帝と同胞の間で曲芸師役割をする外になかったこれらの労苦を記憶すると同時に、彼らがそのとき習得した技術を国家の発展に使えるよう助けてやった李承晩と朴正煕の見識に感謝せざるを得ない。 

임문환(1907〜93)

引用文献

任文桓『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』草思社,2011.

 

植民地朝鮮の記憶⑧

朝鮮総督の事績

 寺内正毅(1852〜1919)は長州藩士の子に生まれ、高杉晋作らが組織した奇兵隊に入隊、戊辰戦争(1868〜69)を戦った。創設された日本陸軍に入り、西南戦争(1877)では銃弾を受け右手の自由を失った。1882年にフランスに留学、駐在武官として1886年まで滞在した。日清戦争(1894〜95)では大本営運輸通信長官、義和団事変(1900)では参謀本部次長、日露戦争(1904〜05)では陸軍大臣として軍を率いた。1910年5月に曾禰荒助に代わって陸軍大臣のまま第3代韓国統監を兼任、8月に日韓併合が成るとそのまま初代朝鮮総督を兼任した。陸相兼任は1911年8月まで続いた。1916年10月に朝鮮総督を辞任し、内閣総理大臣に就任した。

 寺内の朝鮮統治は武断政治として知られ、憲兵警察制度を確立して併合に反対する朝鮮人をビシバシ逮捕した。寺内は三角頭と吊り眼がビリケン人形に似ているのと、強権的な統治手法から「非立憲」をもじつて「ビリケン」とあだ名されるようになった。しかし「ビリケン総督」を書いた藤田亮策(1892〜1960)は、寺内がいかに文化事業に熱心だったかを力説している。藤田は新潟県生まれで東京帝大史学科を卒業、1922年に朝鮮総督府古蹟調査委員として京城に赴任した。つまり寺内総督の時期とは全然かぶっていないが、中学校の同級生だった寺内の二男と総督府のベテラン官僚から話を聞いて「ビリケン総督」を書いた。それによると、博物館の開設、古建築の保存、古蹟の調査・管理、李朝実録の保管、半島金石文の調査、高麗板大蔵経の保存など、およそ古文化財の研究と保存に関する事業は全て寺内総督自らの発案か命令によるものだったという。

 しかし藤田が「ビリケン総督の文化政治は、後の斎藤総督など及びもつかぬ位に徹底したもの」と書いたのは言い過ぎで、鎌田澤一郎によると寺内の武断政治の峻厳さはまことに秋霜烈日の感があり、日朝いずれの民衆にも畏怖されたという。まず御用新聞3紙(京城日報・毎日申報・ソウルプレス)以外の新聞を全て廃刊させ、一進会を含む政治団体も片っ端から解散させた。さらに会社令を発布して会社創設や日本からの出店を厳しく統制したが、これは渋沢栄一をして「まさに事業界の不振を來たす愚の愚なるものであり、亂暴極る惡法である」と激怒させた。鎌田は治安確立と緑化運動を寺内の業績として高く評価しているが、文化事業には触れていない。

寺内正毅(1852〜1919)

 宇垣一成(1868〜1956)は岡山生まれ、1890年に陸軍士官学校1期を卒業し、1900年には陸軍大学校を卒業した。1902〜04年と1906年にドイツに留学、1916年に参謀本部第一部長、1923年に陸軍次官、1924年には陸軍大臣に就任した。1927年4月に陸軍大臣を辞して半年ほど臨時代理の朝鮮総督をつとめた。1931年6月には正式に第6代朝鮮総督に就任、1936年8月まで在任した。

「朝鮮を憶う」は戦後宇垣が語ったことを側近の鎌田が整理したものだが、朝鮮の自然の美しいこと、温泉の豊富なこと、農村振興運動のために全鮮を歩き回ったことが印象に残っていると語った。朝鮮人に対しては「素朴純情で、教うるに道を以てし、導くに法を以てすれば、立派に仕上げることが出来る、我々が日本で聞き且予想していた様な、ひがみ荒んだ思想の持主ばかりでないということがわかって来た」と評価した。農村振興運動については、「民族的懶惰性が次第に修正されかけて、勤勉の風習がつきはじめ、……生活の安定から生れた余裕が、民族資本の結集にまで進んで行きかけたものだ」と成果を自画自賛している。続いて取り組んだのが工業化の推進だが、これについては政務総監の今井田清徳と日本窒素社長の野口遵の名前をあげて称賛している。

宇垣一成(1868〜1956)

引用文献

宇垣一成「朝鮮を憶う」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.185-200.

鎌田澤一郎『朝鮮新話』創元社,1950.

藤田亮策「ビリケン総督」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.178-184.

 

植民地朝鮮の記憶⑦

作家たちの朝鮮紀行

 谷崎潤一郎(1886〜1965)は言わずと知れた文豪で、あと3年生きていればノーベル文学賞を獲れるはずだったが、死んでしまったため川端康成にお鉢が回って行った。谷崎は東京生まれで東京帝大国文科を中退、1910年の「刺青」を皮切りに次々と作品を発表した。1918年に朝鮮・満洲・中国を旅行したが、鄭大均が収録した「朝鮮雑観」はその時の体験に基づいている。その中で谷崎は朝鮮人の服装や建物が平安時代の京都を思わせることを喜び、「平安朝を主材にした物語なり歴史一画なりを書こうとする小説家や画家は、参考の為めに絵巻物を見るよりも寧ろ朝鮮の京城と平壌とを見ることをすすめたい」と書いている。これは韓国における植民地近代化論の台頭 (1) で紹介した「20世紀初頭の朝鮮の経済水準は日本の平安時代に相当する」という停滞性論を連想させる。

 朝鮮料理について谷崎は「まずくて幼稚」「いかに悪物喰いの私でもあればかりは全く喰えなかった」と酷評している。当時京城では明月楼と長春館が高級料理屋として並び称されていたが、谷崎は「明月楼の方は大分日本化して居て日本人の客が多いと云う話」を聞いていた。1926〜40年に京城に住んだ安倍能成も明月館で妓生を侍らせ朝鮮料理を食ったが、「その朝鮮料理なるものが、大分日本化し若しくは西洋料理化したもので、純朝鮮的な味はかなり稀薄である」としている。そこで谷崎は長春館の方へ行ったのだが、出てきたのは「原始的な料理の仕方で、水っぽい、薄穢い、口がヒリヒリする程唐がらしの這入った、見るからに気味の悪い物ばかり」で、最初に出た茹でた豚肉をつまんだ時から胸がムカムカし出したという。おかげで翌日はずっと胸が悪かったが、朝鮮ホテルの洋食を食ってようやく調子を取り戻し、「日本朝鮮満洲を通じて、日本人の経営にかかるホテル料理屋のうちで、此処よりもうまい処は一軒もないだろう」と激賞した。

 佐多稲子(1904〜98)は長崎生まれ、小学生のとき一家で上京し、キャラメル工場の女工や料亭の女中や丸善の店員など職業を転々とした。最初の結婚に失敗後、カフェの女給をしながら「キャラメル工場から」(1928)を皮切りにプロレタリア小説を次々と発表した。1932年には共産党に入党、1935年には逮捕されたが留置所で小説を書き続けた。しかし戦時下で共産主義者の信念を貫くことは難しくなり、時流に妥協した作品を書くようになった。「朝鮮の子供たちその他」は1940年に朝鮮総督府鉄道局の招待で朝鮮を12日間旅行したときの作品で、朝鮮では皇民化教育が進められていた。佐多と話した朝鮮人女性は、小学校に通える子どもは2割しかいないと訴えている。朝鮮の長期時系列 ⑧教育 で述べた通り、1945年の小学校就学率は30%程度だったから、女児に限ればもっと低かっただろう。京城で会った作家志望だという女性記者は、日本語も朝鮮語も中途半端になって困ると悩んでいた。座談会で創氏改名の話題になったとき、姓を変えるということは祖先の抹殺になるから心情的に困難だという話を聞いた。しかし時流に流されている時期だったせいか、佐多は皇民化政策に批判めいたことは書いていない。

佐多稲子(1904〜98)

 島木健作(1903〜45)は札幌市生まれ、東北帝大法学部を中退し、1928年共産党員として逮捕され服役するが、肺結核が悪化し1932年仮釈放された。共産主義からの転向を扱った「癩」(1934)を皮切りに小説を発表し、『生活の探求』(1937)はベストセラーになった。満洲史断想⑩ で紹介したように、1939年に島木は北満を取材し『満洲紀行』(1940)を刊行している。「京城の十日間」は満洲に向かう途中1939年3〜4月に朝鮮に滞在した時の経験に基づいている。京城に対しては、歴史ある町の雰囲気をゆたかに持っていて「美しい」と称賛し、南大門の威容に感動している。また李王家の美術館や漢江の水量を見ては「京城に住む人を羨しく思った」としている。満洲では農家経営や農業労働力問題について突っ込んだ取材をしているが、朝鮮は通り道にすぎないせいか表面的な印象にとどまっている。

 

引用文献

安倍能成「或る日の晩餐」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.202-212.

佐多稲子「朝鮮の子供たちその他」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.291-299.

島木健作「京城の十日間」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.300-305.

谷崎潤一郎「朝鮮雑観」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.286-290.

 

植民地朝鮮の記憶⑥

柳宗悦と朝鮮美術

 柳宗悦(やなぎむねよし、1889〜1961)は東京生まれ。学習院を経て1913年に東京帝大哲学科を卒業、翌年声楽家の中島兼子と結婚した。その年末、朝鮮から訪ねてきた浅川伯教が手土産に持ち込んだ「李朝染付秋草文面取壺」に一目惚れして朝鮮の工芸品に関心を持った。1916年以後たびたび朝鮮を訪れ、3.1独立運動(1919)の際には朝鮮人に同情し、読売新聞(1919年5月20日付)に寄稿した「朝鮮人を想ふ」で「朝鮮人よ、日本人たちがあなたたちを侮辱し苦痛を与えても彼らのうちこのような一文を残した者があるのを知ってくれ。日本が正義の人道の道を歩き得ないことに対する明白な反省がわれわれ日本人の間にもあることを知ってくれ」と書いた。同年、柳は東洋大教授となり、明治大でも講義を行った。

 1921年に柳は朝鮮民族美術館設立のための資金集めに朝鮮に赴いた。下の記事は朝鮮日報(1921年12月3日付)から抜粋しているが、当時のハングルの表記法をそのまま残しながら漢字は省略しているため、ものすごく読みにくい。

 

https://n.news.naver.com/mnews/article/023/0003974313?sid=103

“조선 미술품에는 피의 뜨거움이 있다” 야나기 무네요시 [조선일보 2026-05-03]

류종렬(柳宗悅·야나기 무네요시)씨가 경셩에다 죠션민족미슐관이라는 것을 셜립하기 위하야 금 십일일 밤 칠시오십분 남대문 도착렬차로 입경하게 되얏는대 동씨가 이와갓흔 예술뎍 공헌을 조션에 베풀녀 하는 것은 자택에만히 모두아 두엇던 죠선 미술의 작품에셔 여러가지 감상과 깨다름을 엇어 그 미슐품에는 조션 민족의 마음의 맥박과 피의 뜨거움이 오히려 남어잇슴을 알아내게 되고……

柳宗悦氏が京城に朝鮮民族美術館というものを設立するため今十一日晩七時五十分南大門到着列車で入京することになったが同氏がこのような芸術的貢献を朝鮮にもたらそうとするのは自宅に多く集めておいた朝鮮美術の作品から多くの観想と悟りを得てその美術品には朝鮮民族の心の脈拍と血の熱さがむしろ残っているのを知ることになり……

 

 ともあれ、朝鮮民族美術館は1924年4月に無事開館した。上の記事によると各界からの寄付をはじめ、兼子夫人が音楽会を開いて稼いだ収益まで注ぎ込んだという。

 

야나기가 설립을 추진한 조선민족미술관은 1924년 4월 9일 경복궁 내 집경당에서 개관했다. 성악가인 야나기의부인 가네코(兼子)가 음악회를 열어 얻은 수익을 비롯해 각계 성금으로 자금을 조달했다. 총독부 산림과 직원으로 조선 도예 전문가인 아사카와 다쿠미(1891~1931)도 힘을 보탰다. 야나기가 수집해 이곳에서 전시·소장했던미술품은 해방 후 한국에 그대로 남았다. 현재 국립중앙박물관과 국립민속박물관이 소장 중이다.

柳が設立を推進した朝鮮民族美術館は1924年4月9日、景福宮の緝敬堂に開館した。声楽家である柳の夫人兼子が音楽会を開いて得た収益をはじめ、各界の寄付で資金を調達した。総督府山林課職員で朝鮮陶芸の専門家である浅川巧(1891~1931)も力を貸した。柳が収集しここで展示・所蔵した美術品は、解放後韓国にそのまま残った。現在国立中央博物館と国立民俗博物館が所蔵中だ。

 

 柳は前年の関東大震災を機に京都に移り、同志社大、同志社女学校、関西学院などで講師をつとめた。鄭大均が収録した「林檎」は同志社女学校の生徒と修学旅行で朝鮮に行った際の逸話で、慶州から大邱へ向かう汽車で切符をなくした老人の運賃を払ってやったらお礼に林檎をくれたという話である。「朝鮮陶磁号序」では、平凡で地味で冴えないものの方が良いという独特な美意識が語られる。

 

何か特別の時には支那のものは冴えてよい。客など来れば明の染附けなどは食事を引き立たせる。だが静かに語りたい時や、長く暮す室では、強過ぎる器物では合わない。そういう時、朝鮮ものにつくづく親しさを覚える。器物としては又とない性質である。

柳宗悦(1889〜1961)

引用文献

柳宗悦「林檎」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.282-284.

柳宗悦「朝鮮陶磁号序」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.390-395.

 

植民地朝鮮の記憶⑤

安倍能成の京城散策

 鄭大均が10編ものエッセイを採録した安倍能成(あべよししげ、1883〜1966)は愛媛県松山生まれで、東京帝大哲学科で学び、また夏目漱石らと交際して文芸評論を手がけた。1909年に帝大を卒業し、女子英学塾や慶応義塾大などで講師をしながら「西洋古代中世哲学史」「西洋近世哲学史」「カントの実践哲学」などを書きまくった。1920年に法政大教授に就任、1924〜26年にヨーロッパに留学、帰国後1926〜40年のあいだ京城帝大教授をつとめた。鄭大均が集めた10編は新聞雑誌や著書『青丘雑記』(1940)、『槿域抄』(1947)に収録されたものだが、島木健作は「……木下杢太郎氏、安倍能成氏などの文章、東京で知り合った二三の朝鮮人の友だちの話、まだ見ぬ朝鮮はそれらを通して、私の心に呼びかけていたのだった」と書いており、安倍の文章は日本ではよく読まれていたらしい。

 安倍は1926年3月上旬に朝鮮に赴任し汽車で釜山から京城に向かったが、車窓から見た風景が単調でうんざりしたという。夏休みに帰省する際に逆に釜山に向かった際も、ポプラやアカシヤばかりで退屈だったとする。その原因は「今までの山林の荒廃、人間が自然から取るだけ取って自然を守り育てることをしなかった投げやりから来るように思われる」と書いている。浅川巧をはじめ多くの日本人が、禿山だらけの朝鮮に緑を取り戻そうと努力した理由でもある。

 安倍はやたら樹木にうるさく、ポプラやアカシヤだらけで柳や槐や欅の古木が少ないことを惜しんでいる。ポプラといえば日野啓三の「ポプラ」というエッセイが収録されているが、小中学生の10年間あちこち移り住んだ朝鮮の都市にはどこにもポプラがあったという。併合以後日本人によって桜があちこちに植えられたが、安倍は桜が美しいのは春と秋の一時期だけなのであまり植えすぎるなとやかましい注文をしている。金剛山に関するエッセイでも、ポプラやプラタナスやニセアカシヤや桜をわざわざ植える必要はないと書いている。

 安倍は京城で見るお婆さんたちが「大抵は嫁いびりでもしそうな、むしろ迫った、せせこましい表情をしたものばかり」だという印象を受けた。これについては朝鮮人が早婚で若い頃から舅姑にいびられ、また夫より年上の妻が多いため夫に甘えられず、年を取っては夫に疎まれる不安に苦しんできたためだろうと解釈した。朝鮮人の早婚は有名で、金斗憲が10代の結婚は夫45%程度、妻75%程度でインドに次いで多いと指摘している。ちなみに1932年の平均婚姻年齢は夫22.7歳、妻18.7歳で、子守りを兼ねて年上の嫁を娶るのは両班層だけの習慣だったと思われる。

 安倍の印象では、朝鮮女性は年がら年中洗濯ばかりしている。「京城の市中を歩くと、そこを流れる川、溝は固より、井戸の端でも水道栓の側でも、そこに洗濯をしている女を見ぬことはない」という。また公園の池の側に「洗濯す可からず」とあるのは、世界で朝鮮だけかも知れないと面白がっている。これほど生活の大部分を洗濯に費すのは、朝鮮人が汚れの目立ちやすい白衣を着るからだが、「思うに夫をして常に雪白の衣を纏わしめることは、心懸のよい朝鮮婦人の可憐な理想であろう」としている。

 安倍は京城に赴任して2年目あたりで骨董趣味にハマり、東洋大学に留学していた骨董商の李午性と知り合った。また朝鮮陶磁器を研究していた浅川伯教を通じて、在京日本人の骨董好きとも付き合うようになった。「壺辺閑話」には「朝鮮人仲間の購買力が殊に増大して、品物が全く払底」(1937)と書かれているが、これは経済成長の果実が朝鮮人にも及んでいた傍証になるだろう。

 浅川巧の案内で日本人5〜6人でソルロンタンを食って妓生の家に押しかけたのは、1930年12月7日だった。安倍は貫徹洞の貨泉屋のソルロンタンを「中々旨い」「その味は私には存外さっぱりして居り、その熱さの為にか妙な脂臭さがない」と気に入っている。続いて平壌楼で食した餅湯も「この雑煮も中々旨かった」と高評価だった。さらにハシゴして大衆的な酒幕で飲んだ薬酒は、「少し酸ぱみを感じた外別にうまいともまずいとも思わなかった」そうである。安国洞の妓生宿では15歳と16歳の少女が伽揶琴を弾きながら「かなり調子の激越な歌」を歌うのを聞いた。別の妓生宿では出前のビビンバを食ったが、「余り旨いとは思わなかった」そうである。

 鄭大均は『青丘雑記』(1940)から「浅川巧さんを惜む」「朝鮮所見二三」「京城の市街に就て」「京城とアテーネ」「京城雑記」「京城街頭所見」の6編を収録した。古書店主でコラムニストの송재웅によると、この本は朝鮮の布と紙を使い『朝鮮王朝実録』の字体を用いるなど凝った造りだという。

 

https://www.samdailbo.com/news/articleView.html?idxno=208538

근대 일본인 눈에 비친 제주…“개척보다 배양을”[삼다일보 2023-06-29]

1926년부터 1932년까지 6년 동안 ‘때때로 마음가는대로 쓴 글’들 전부가 조선에서 쓴 것이라 서명을 이렇게 명명했다고 밝힌 저자는 표지를 싼 천도 조선산 삼베(麻布)로 하고 속지는 한지(韓紙)를 썼으며 그 그림은 조선 도자기에 관한 연구자이자 감상자로 유명했던 아사카와 노리다카(淺川伯敎 다쿠미의 형)가 그린 것으로 장정했다. 뿐만 아니라 책등의 서명과 저자명은 ‘조선왕조실록’의 글자체를 뽑아서 쓸 정도였기에 보는 순간 그의 조선에 대한 관심이 한 눈에 느껴지는 책일 수 있었다.

1926年から1932年まで6年の間「その時々に気が向くまま書いた文」の全部が朝鮮で書かれたもので、書名をこのように命名したと明らかにした著者は、表紙を包む布にも朝鮮産麻布を用い、内紙には韓紙を使い、朝鮮陶磁器の研究者・鑑賞者として有名だった浅川伯教(巧の兄)が描いた絵で装丁した。のみならず表紙の書名と著者名は『朝鮮王朝実録』の字体を選んで使うほどだったので、見た瞬間彼の朝鮮に対する関心が一目で感じられる本になった。

引用文献

安倍能成「朝鮮所見二三」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.308-315.

安倍能成「金剛山の風景」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.362-369.

安倍能成「京城雑記」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.396-410.

安倍能成「京城の市街に就て」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.316-320.

安倍能成「京城とアテーネ」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.321-326.

安倍能成「京城街頭所見」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.411-424.

安倍能成「壺辺閑話」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.217-227.

安倍能成「或る日の晩餐」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.202-212.

島木健作「京城の十日間」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.300-305.

日野啓三「ポプラ」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.92-93.

金斗憲『朝鮮家族制度研究』乙酉文化社,1949(金英美・金香男・金貞任訳『韓国家族制度の研究』法政大学出版局,2008)

 

植民地朝鮮の記憶④

浅川巧と朝鮮

 浅川巧(1891〜1931)は山梨県生まれ、山梨県立農林学校を出て秋田県大館営林署に勤務した。1914年に京城で小学校教師をしていた兄の伯教(のりたか)を追って朝鮮に渡り、朝鮮総督府農商工部山林課林業試験場に就職した。伯教は朝鮮陶磁器の蒐集にハマっており、巧も影響を受けた。また1915年には伯教とともに千葉県我孫子で柳宗悦に会い、民芸品にも興味を持つに至った。1924年には柳宗悦が朝鮮民族美術館を設立するのに協力した。1929年には『朝鮮の膳』を出版した。安倍能成の「或る日の晩餐」によると、安倍が浅川巧の案内で伯教らと鍾路でソルロンタンを食い、安国洞の妓生の家を訪れたのは、1930年12月7日のことだった。浅川巧は1931年4月に肺炎のため40歳で死亡した。遺著『朝鮮陶磁器名考』は同年9月に出版された。

 鄭大均が収録した「金海」は遺稿で、『工芸』1934年3月号(浅川巧追悼号)に発表された。大邱に出張したが日程が余ったので急に思い立って金海窯の跡を探しに行くという話だが、何年の出来事なのかはわからない。ヒーヒー言いながら山を越え、何とか古沙器廛の窯跡を見つけて白磁の破片を拾い集めた。案内の子どもが何にするのかと聞くので、本を拵えるのだと答えた。するとそれを伝え聞いた九州弁を喋る朝鮮人の青年がやって来て、陶片からどうやって紙を作るのかと質問したという。

 安倍能成の追悼文「浅川巧さんを惜む」によると、浅川巧は朝鮮語に堪能で、薄給の中から多くの朝鮮人を経済的に支援した。巧の死を聞いてやって来た朝鮮人らは慈父の死に対する悲しみようで、安倍に「おとうさんよりも懐しく思っていた」と語る者もいた。巧は白い朝鮮服を着せられ、生前恩義を受けた朝鮮人らに棺を担がれ、朝鮮の流儀で朝鮮人共同墓地に埋葬された。

 浅川巧の生涯は江宮隆之の小説『白磁の人』(1994)に描かれ、2012年には高橋伴明監督、吉沢悠・裵秀彬主演の映画『道〜白磁の人〜』が公開された。映画を紹介した天地日報の記事は、巧が死後も韓国で敬愛され続けたことを伝えている。

 

https://www.newscj.com/news/articleView.html?idxno=137032

‘백자’에 빠져 한평생 조선을 아꼈던 일본인, 아사카와 타쿠미 [천지일보 2012-06-17]

1966년 타쿠미의 동료였던 김이만 씨가 제안해 한국 임업시험장 직원 일동의 이름으로 ‘아사카와 타쿠미 공덕지묘(浅川巧功徳之墓)’가 세워졌다. 또한 1986년에는 조재명 씨를 중심으로 직원 일동이 ‘한국의 산과 민예를 사랑하고, 한국인의 마음속에 살다간 일본인, 여기 한국의 흙이 되다’라고 새긴 기념비를 세워, 1997년에는 홍림회의 손으로 정비됐다. 현재 타쿠미의 묘는 망우리 안에서 한국인에 의해 지켜지고 있는 단 하나의일본인 묘다.

1966年巧の同僚だった金利萬が提案して韓国林業試験場職員一同の名義で「浅川巧功徳之墓」がたてられた。また1986年には趙在明氏を中心に職員一同が「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の胸中に生きた日本人、ここに韓国の土になる」と刻んだ記念碑をたて、1997年には弘林会の手で整備された。現在巧の墓は忘憂里内で韓国人によって守られているただ一つの日本人の墓だ。

浅川巧(1891〜1931)

引用文献

浅川巧「金海」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.261-281.

安倍能成「浅川巧さんを惜む」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.164-177.

安倍能成「或る日の晩餐」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.202-212.

 

植民地朝鮮の記憶③

コロンの子どもたちの追想

 田中明(1926〜2010)に加え五木寛之(1932〜)・安岡章太郎(1920〜2013)・森崎和江(1927〜)・日野啓三(1929〜2002)の4人は、いずれもコロン(植民者)の子女として幼少期を朝鮮で過ごした。五木寛之の父・信蔵と母・カシエは二人とも小学校教師で、五木は生まれてすぐ母親に抱かれて朝鮮に渡った。最初の記憶は母親が論山の尋常小学校に勤務していた頃で、父親は少し離れた別の町の小学校に勤務していた。五木は日中は朝鮮人のねえやに子守りされながら家で留守番していたという。その後、父親がど田舎の普通学校(朝鮮人向けの小学校)の校長に栄転したため、一家はそこ(地名は書いていない)に引っ越した。日本人は駐在所の巡査夫婦だけで、五木は朝鮮人の子どもと遊ぶしかなかった。五木はそこで見た物語(パンソリ?)芸人に強い印象を受け、「物語る」ということへの欲求が芽ばえたという。

 安岡章太郎は5歳で京城に移り、小学校3年生で青森県弘前市に引っ越したというから、朝鮮滞在は1925〜29年ということになる。父親は憲兵隊の大尉で、一家は京城の中心部(現忠武路)に住んだ。付近は日本人だらけで、朝鮮人は洒落た店の前にたむろしては金をたかる浮浪少年たちだけだったという。五木寛之は朝鮮人の子守りに世話を焼かれたが、安岡の家では日本人の女中を雇っていたという。京城の中心部には日本人が溢れていたらしい。

 森崎和江は慶尚北道大邱生まれで17歳まで朝鮮で暮らしたというから、在朝歴は田中明より長い。父親は教師で、丘の上の日本人居住区に住んでいた。丘の下には朝鮮人街があったが、行ったことはなかったという。慶州に移ってからは古代新羅文化の雰囲気に魅了され、遺跡や書院を訪れては感動していたという。このように思春期までまるごと朝鮮で暮らしたせいか、戦後は日本の風土への嫌悪感に苦しみ、なかなか適応できなかったらしい。

 日野啓三は5歳で渡鮮し、慶尚南道密陽の尋常小学校を卒業した。父親は銀行の支店長で、一家は密陽駅前の日本人街に住んでいた。駅から離れた「城内」は朝鮮人街で、日野は用事があって城内に入るとき「強烈に悩ましい憂愁のような気分」を覚えたという。日野が見たところでは、朝鮮人は駅前地区のハイカラさや豊かさなど無関心のように悠々と暮らしていた。日野は城内で感じた憂愁を「自分のものではない土地に怯えながら生きねばならなかった者の、土地に根ざして生きる者への憧れだったにちがいない」と分析している。中学校は京城の龍山中学校に通ったというから、田中明の3年後輩ということになる。旧制中学は5年制なので同時に在籍していた時期があり、面識もあったらしい。

日野啓三(1929〜2002)

引用文献

五木寛之「運命の足音」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.18-27.

安岡章太郎「僕の昭和史」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.28-39.

森崎和江「詩を書きはじめた頃」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.82-86.

日野啓三「遠い憂愁」鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』筑摩書房,2015,pp.87-91.