親日派官僚、任文桓
鄭大均は任文桓の『愛と民族』(1975)がお気に入りらしく、自著の中で盛んに引用し、しまいには『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』と改題して解説を付けて復刻出版したことは任文桓年譜 で触れた通りである。年譜にある通り任文桓は東京帝大法学部在学中に高等文官試験に合格し、朝鮮総督府官僚として働いた。その間龍仁郡守や殖産局事務官をつとめ、江原道鉱工部長に発令されたところで終戦を迎えた。『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』によると、1948年9月に反民族行為特別調査委員会の特警隊員が尋ねてきて任文桓を連行しようとした。逮捕の基準を問うと「高等官三等以上と勲六等以上を貰った者は起訴の対象になる」とのことであった。任文桓は「いずれの条件にも該当しない」と答え、押し問答の末に連行を免れた。
故盧武鉉大統領(2003〜08年在任)は親日派清算が中途半端だったことを遺憾とし、親日反民族行為真相糾明委員会を発足させ『親日人名辞典』を編纂させた。朝鮮総督府官僚は郡守など高等官以上が含まれることになったため、任文桓も親日派認定された。
https://www.nocutnews.co.kr/news/70746
해방 이후 사실상 첫 ''친일인사'' 명단 발표 [노컷뉴스 2005-08-29]
농림부장관을 지낸 임문환씨는 조선총독부 광공국 서기관 등을 역임해 명단에 올랐고, 전 한국은행 총재 전예용씨도총독부 사회과장을 역임한 전력으로 친일 인사 명단에 수록됐다.
農林部長官をつとめた任文桓氏は朝鮮総督府鉱工局書記官等を歴任し名簿に上がり、前韓国銀行総裁の全禮鎔氏も総督府社会課長を歴任した前歴で親日人士名単に収録された。
趙甲濟元『月刊朝鮮』編集長は、「農林部長官を経た任文桓回顧録を読破中」だとして、自身が『月刊朝鮮』1984年8月号に書いた「朝鮮総督府高官のその後」という記事を紹介した。その中で趙甲濟は任文桓が書いた「東京帝国大学法学部卒業者十人の運命」(『友邦』1980年9月1日付)を引用し、任文桓と同時期に東京帝大法学部に在籍していた朝鮮人10人全員が高等文官試験に合格し、ひとりを除いて朝鮮総督府官僚になったと紹介している。10人のうち晉炎鍾は日本が降伏した直後病死し、金熙德も朝鮮戦争中に病死した。張壽吉は朝鮮戦争中自ら越北し、李忠榮は拉北されたまま消息が途絶えた。張徹壽も朝鮮戦争で拉北され、スパイとして南下したが自首して釈放された。慶北大教授に在任中、過飲による肝臓炎で1956年に死亡した。朴成大や康明玉も朝鮮戦争後まもなく死んだ。任文桓以外に60歳まで存命したのは張暻根と高秉國だけで、張暻根は李承晩政権の内務部長官等をつとめたが朴正煕政権下の1960年に逮捕され、保釈中に日本に密航し亡命生活を送った。1977年に帰国したが、翌年病死した。高秉國は1956年に韓国法学院が設立されると副院長に就任し、1976年に死亡するまで韓国の法学教育と法曹界の重鎮として活躍した。趙甲濟は親日派官僚を民族的反逆者として弾劾しろという輿論に迎合せず、貴重な人材を活用しようとした李承晩や朴正煕の見識を讃え、次のように結んだ。
http://www.chogabje.com/board/view.asp?C_IDX=45129&C_CC=AZ
여섯 번 國籍을 바꾼 한 엘리트 관료의 回想 [조갑제닷컴 2012-05-20]
任文桓 씨처럼 식민지 관료 생활을 하면서 日帝와 동포 사이에서 곡예사 역할을 할 수밖에 없었던 이들의 勞苦를 기억함과 동시에 이들이 그때 익힌 기술을 국가 발전에 쓸 수 있도록 도와준 이승만과 박정희의 안목에감사하지 않을 수 없다.
任文桓氏のように植民地官僚生活をして日帝と同胞の間で曲芸師役割をする外になかったこれらの労苦を記憶すると同時に、彼らがそのとき習得した技術を国家の発展に使えるよう助けてやった李承晩と朴正煕の見識に感謝せざるを得ない。

引用文献
任文桓『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』草思社,2011.






