juraian’s blog

東アジア史、ナショナリズム、反日言説に関する個人研究

20世紀東アジアの大飢饉

 日本では天保の飢饉(1833〜39年)以後は飢饉らしい飢饉は起きていない。1934年の冷害では東北地方を中心に欠食児童や娘の身売りが続出して大騒ぎになったが、死者数はそれほどでもなかったと思われる。実際、1935年の国勢調査人口は6925.4万人で、1934年より1.4%増えている。台湾も日本統治期から農業が好調で、中華民国接収後も大した飢饉は起きていない。

『朝鮮王朝実録』で「大饑」と記されたのは、1821(純祖21)年が最後である。この頃は人口が減少していたと思われるが、李朝戸籍は漏洩が多すぎて使い物にならず、またコレラなどの疫病や民乱の影響もあって飢饉の効果を求めるのは難しい。ともあれ19世紀後半から日本時代まで、「大飢饉」と呼べるほどの飢饉はなかった。韓国でも戦時を除いて大した飢饉はなかった。つまり北朝鮮の「苦難の行軍」(1994年以後)は、朝鮮半島で実に173年ぶりに起きた大飢饉ということになる。

『清史稿』で「大饑」と記されたのは、1877(光緒3)年の高陵(陝西省西安市)と合水(甘粛省慶陽市)の大飢饉が最後である。Wikipediaによると、20世紀に入って1907,1911,1928,1936年に飢饉があったらしいが、「大飢饉」と呼べるほどなのかよくわからない。しかし日中戦争中の河南大飢饉(1942〜43年)と新中国建国後の大躍進飢饉(1959〜61年)では、とんでもない数の死者が出た。

 というわけで、20世紀東アジア(モンゴルを除く)の大飢饉は、朝鮮で1回、中国で2回あったことになる。20世紀になると農業生産性も向上し運輸通信インフラも整ってきたため、自然災害だけで大飢饉になることはなくなった。東アジアの3回の大飢饉も、人災の側面が強い。

 

1.河南大飢饉(1942〜43年)

 1938年、日本軍は上海・南京・蘇州等の主要都市を占領し、内陸に進軍して河南省鄭州に集結した。血迷った蒋介石は6月6日、鄭州付近の黄河花園口の堤防を爆破させた。日本軍の被害は微少だったが、禹昇爗によると鄭州周辺の住民1250万人が罹災し、89万人が死んだ。さらに河南省の農業は大打撃を受け、黄河の流れが変わって多くの農地が湿地帯や沼沢地と化し、4年後の大旱魃とイナゴの大発生につながった。

 1942年に国民党軍第1戦区副司令長官だった湯恩伯は、河南省の住民から過酷な収奪を行い、最も悪名が高かった。徴兵と称して誘拐した家族に身代金を請求することまでした。日中戦争中、河南省では260万人が招集されたが、これは全国で最大数だった。河南省の住民は、洪水、旱魃、虫害、湯恩伯を4大害悪と呼び、「湯恩伯がやってくるくらいなら、家で日本軍に焼き殺される方がマシだ」と言った。

湯恩伯(1899〜1954)

 1942年秋、住民が収穫を心待ちにしていた時、イナゴの大群が河南省を襲った。虫害は翌1943年まで2年にわたり続いた。正確な原因は不明だが、黄河決壊によって生じた湿地帯で繁殖したと推定される。薪と燃料を焚いて煙で追い払おうとしても、効果がなかった。餓えた農民も、「災殃を呼ぶ昆虫を食えば上帝の怒りを買う」という迷信からイナゴを食わなかった。秋が深まると農村は餓死者であふれ、一日平均4000人が死んだ。

 冬になると町では自分の子どもを売る親があふれた。しかし買い手は少なく、仮に売れても小麦粉一袋分の値段しかならなかった。人間市場では子どもだけでなく、夫が妻を、兄が妹を売った。子が売れなかった親は子を町に置き去りにして捨てた。

 冬が深まると餓死者はさらに増えた。道の両側には女・子ども・老人の死体が散らばっていた。都市外郭の用水路、堤防、橋の下には都市から捨てられた餓死者の死体が重なっていた。夜になると餓えた生存者がそこを訪れ、人肉を食った。家族同士殺し合い食らい合う事例もあった。親が子を、夫が妻を殺して食う地獄図が出現した。一方、都市の官庁街、軍営、駅周辺には紅灯街が広がり、湯恩伯をはじめ高位将校・公務員らが売られて来た女たちと歓楽の限りを尽くしていた。飢民の救恤や外国への支援要請といった方策は、一切とられなかった。

 1943年2月、米国人記者セオドア・ホワイト(Theodore H. White)が直接河南省を取材し、タイム誌に寄稿した記事が米国で大反響を起こした。米国から軍需品と支援物資を受け、国際輿論の圧力を受けた蒋介石政権は、ようやく河南省救済活動を開始した。河南省飢饉の餓死者は300万人とされるが、これは省西部の国民党統治地域に限ったもので、禹昇爗によると省全体では500万人にのぼるとされる。

 

2.大躍進飢饉(1959〜61年)

 大躍進飢饉は毛沢東の失政によって起きた完全な人災である。1957年11月に毛沢東がモスクワを訪問した際、フルシチョフは「ソ連は向こう15年以内にアメリカを追い越す」と発言した。毛沢東はそれに対し負けず嫌いを発動し、「それなら中国は15年以内にイギリスを追い越す」と宣言した。毛の帰国直後から、北京政府は大量の機械設備を買い漁り始めた。

 1958年5月の第8期党大会で、毛沢東が主導する「大躍進」路線が採択された。夏には人民公社が創設され、毛はこれによって農業生産が飛躍的に増大し、各人が必要に応じて入手できる共産主義社会が数年で実現できると信じた。しかし賃金が廃止され、貨幣を廃止する人民公社もあったため、労働に対するインセンティブが失われ、生産性は激減した。

毛沢東(1893〜1976)

 毛沢東は海外からの投資と技術に頼らず、自力更生で工業化を進めるよう命じ、非現実的な鉄鋼生産目標を強制した。各地で土法高炉が作られたが、生産された鉄はほとんどが使い物にならない代物だった。男たちが土法高炉での苛酷な作業に動員され、農作業は女たちに委ねられた。経験のない女たちは苗を不規則に植えたり、雑草を放置したため、農業生産は激減した。農具は製鉄キャンペーンで破壊され、収穫期に農民を見当違いの作業に動員したため、大量の穀物が畑に放置され腐るにまかされた。

 1959年春には物乞いの群れや全村住民の逃亡など、飢饉の兆候が見られた。4月末、飢餓は国中に蔓延した。春窮の時期を過ぎて夏になっても、各地の食糧不足は悪化の一途を辿った。毛沢東は大躍進のペースを減速させようとしたが、大躍進の政策自体は中止するつもりはなかった。7月の廬山会議で飢餓の悲惨さを指摘した彭徳懐らは、毛沢東に叱責され失脚した。

 1960年秋に河南省の飢饉に関する報告書が届くと、毛沢東は富農と反革命分子の陰謀だと主張した。階級敵を根絶するキャンペーンが全国展開され、何千人もの幹部が取り調べを受け、一部はその場で逮捕された。

 1961年4月に湖南省を視察した劉少奇は飢餓の実態に衝撃を受け、飢饉は中央指導部の過ちによる人災だと宣言した。パワーバランスが劉少奇に傾いたのを察知した李富春は、7月の北戴河会議大躍進政策を放棄する提案を行った。8月の廬山会議で李富春は毛沢東に責任はないことを繰り返したが、毛はめったに会議に現れなかった。

 1962年に入ると毛沢東の権威は低下し、飢饉は収束に向かった。ディケーターは従来の超過死亡数3250万人という推計値は低すぎ、少なくとも4500万人に達したとした。

 

3.「苦難の行軍」大飢饉(1996〜2000年)

 1990年代までにはグローバリゼーションが進んで運輸通信インフラも整い、世界食料計画(WFP)をはじめ飢饉を監視し援助を調整する国際機構が設立された。このためアフリカ南部の食糧生産を通常年の56%に引き下げた1991〜92年の黙示録旱魃でも、死亡率の目立った上昇は見られなかった。このように飢饉への対処法が確立されたかに見えた中で、北朝鮮の飢饉は大きな衝撃を与えた。

金正日(1941〜2011)

 社会主義経済の限界から、北朝鮮の経済成長は1980年代前半には停滞していた。1991年のソ連崩壊により食糧支援が停止したため、1990年代前半から北朝鮮の食糧事情は急速に悪化した。1994年7月に金日成が死去すると、体制は動揺し混乱が広がった。かろうじて維持されていた食糧配給システムも、1995年の洪水をきっかけとして完全に破綻したが、その洪水も無理な山林伐採による保水力低下が原因だった。

 北朝鮮政府は1994年までには食糧不足を認め、1995年から国連、日本、韓国、中国、米国のNGO等が食糧支援に踏み切った。しかし北朝鮮がモニタリングを拒否したため、どう分配されたかはわからない。金正恩は「反乱が起きたら全部殺せ。餓死者は死なせておけばいい」と発言した。文活一によると、超過死亡数の推計値は27万人から350万人までの広い範囲に及んでいる。文活一の人口学的分析の結果は、1994〜2000年の超過死亡数は33.6万人というものだった。

 

引用文献

文活一『朝鮮民主主義人民共和国の人口変動−人口学から読み解く朝鮮社会主義明石書店, 2011

우승엽『대기근이 온다 (세상을 바꾼 가뭄과 기근의 역사)』처음북스, 2016.

Dikoetter, Frank, Mao's Great Famine: The History of China's Most Devastating Catastrophe, 1958-1962, Walker&Co, 2010(フランク・ディケーター(中川治子訳)『毛沢東の大飢饉—史上最も悲惨では快適な人災 1958〜1962』草思社, 2011)