juraian’s blog

東アジア史、ナショナリズム、反日言説に関する個人研究

日朝中から見た日朝中 (6) 徐兢『高麗図経』

徐兢(朴尚得訳)『宣和奉使 高麗図経』国書刊行会, 1995.

 徐兢は北宋の官吏で、徽宗皇帝宣和5年(1123)に国信所提轄人船礼物官として高麗に来て、王都開京に1ヶ月ほど滞在した。このときの見聞をまとめたのが『高麗図経』だが、図版は失われている。高麗は仁宗元年で、北方で女真が台頭し、高麗を圧迫した時期に当たっている。原文は韓国古典翻訳院(http://db.itkc.or.kr)による。

 

若高麗則不然。立宗廟社稷。治邑屋州閭。高堞周屏。模範中華。抑箕子舊封。而中華遺風餘習。尚有存者。朝廷間遣使。存撫其國。入其境。城郭巋然。實未易鄙夷之也。今盡得其建國之形勢而圖之云。

しかし、高麗はそうではない。宗廟、社稷を立て、村里や邑州を治め、姫垣を高くし、塀を巡らして中華を模範にしている。箕子の旧封を治めて中華の遺風、余習のなお存するものがある。朝廷はしばしば使者を遣わしてその国を慰め、安んじている。その境域に入ると、城郭が広大にして堅固である。実にまだ卑しい外国と取り換っていないのである。(pp. 36-37)

 

故其民居。形勢高下。如蜂房蟻穴誅茅爲蓋。僅庇風雨。其大不過兩椽。比富家稍置瓦屋。然十纔一二耳。

その民家の有様は高低していて、まるで蜂の巣や蟻の穴のようである。刈萱を覆いにしてやっと風雨を凌いでいる。その大きなものもたるきが二本あるに過ぎない。ちかごろ、金持ちがようやく屋根に瓦を置くようになった。しかし、十軒のうち僅かに一、二軒だけである。(p. 43)

 

蓋其俗無居肆。惟以日中爲虚。男女老幼官吏工技。各以其所有。用以交易。無泉貨之法。惟紵布銀鉼。以准其直。至日用微物。不及疋兩者。則以米計錙銖而償之。

けだしその風俗に常設店は無いのであろう。ただ日中に市をなすだけである。男女老幼、官吏、職人の各々がその所有物でもって交易している。金銭の法は無い。ただ紵布、銀瓶でもってその値に準えている。日用雑貨で匹数や重さの及ばないものには、米で重さを計って償っている。(p. 44)

 

臣聞東南之夷。高麗人材最盛。

聞くところによると、東南の夷では、高麗の人材がもっとも豊富であるとのことである。(p. 73)

 

蓋其國人質侏儒。特加高帽錦采。以壯其容耳。

思うにその国の人びとの体格は、短小なのであろう。ただ高帽、錦衣を加えて、その容姿を大きく見せているだけのことである。(p. 89)

 

麗國多山。道路坎壈。車運不利。又無橐駝可以引重。而人所負載甚輕。故雜載。多用馬。

高麗国には山が多い。道路が険しくて苦しむ。車で運ぶのは不利である。また駱駝がいないので重い物を引っ張ることはできない。そして、人が背負えるのはとても軽い物だけである。したがって雑載には多く馬を用いる。(p. 113)

 

高麗舊俗。民病不服藥。唯知事鬼神。呪咀厭勝爲事。自王徽遣使入貢。求醫之後。人稍知習學。而不精通其術。

高麗の昔の風習では民は病に服薬しなかった。ただ鬼神に仕えることを知るだけで、のろい、まじないで除災、招福を事ととしていた。徽王〔第十一代文宗〕が貢使を遣わして医を求めた後から、人びとはしだいに習い学んで知るようになったが、その術に精通しはしなかった。(pp. 118-119)

 

但麗人。大抵首無枕骨。以僧祝髮。乃見之。頗可駭訝。晉史謂三韓之人。初生子。便以石壓其頭令扁。非也。蓋由種類資稟而然。未必因石而扁。

ただし高麗人はたいてい、首に枕骨〔後頭部に突出している骨〕がない。僧侶の剃髪でそれを見るとすこぶる驚き、訝るべきものである。『晋史』は言っている。「三韓の人が初めて子を生む。すぐに石でその子の頭を圧して平たくする」と。そうではない。けだし、種類、資質に由ってそうなるのであろう。必ずしも石によって平たくするのではない。(p. 135)

 

臣聞高麗。地封未廣。生齒已衆。四民之業。以儒爲貴。故其國。以不知書。爲恥。山林至多。地鮮平曠。故耕作之農。不迨工技。州郡土産。悉歸公上。商賈不遠行。唯日中。則赴都市。各以其所有。易其所無。煕煕如也。然其爲人。寡恩,好色,泛愛,重財。男女婚娶。輕合易離。不法典禮。良可哂也。

聞くところによると、高麗の封地はまだ広くないが、人口はすでに多い。〔士、農、工、商の〕四民の業では儒を貴しとしている。だからその国では、書を知らないのを恥としている。山林が多く、土地は少なく平地は殆んどない。したがって農耕は工芸に及ばない。州都の土産は悉く御上のものにされている。商売では遠くまで行かない。ただ日中に都市に赴くだけである。各々その有るもので無いものと交換している。それで和らぎ楽しむかのようである。しかし、かれらの人となりは、恩が少なく色を好む。一般に財物を好み重んじる。男女が結婚するのにも、軽く合して容易に離れ、典礼に則らない。まったく嘲笑うべきことである。(p. 138)

 

高麗。工技至巧。其絶藝。悉歸于公。

高麗の職人はいたって巧緻である。その絶妙な芸は悉く御上のものにされている。(p. 139)

 

高麗俸祿。至薄。唯給生米,蔬茹而已。常時。亦罕食肉。毎人使至。正當大暑。飮食臭惡。必推其餘與之。飮啗自如。而又以其餘。

高麗の俸禄は至って薄い。ただ生野菜、根菜を支給するだけである。常時、食肉はめったにない。いつも使者が至るのはまさに大暑にあたっていて、飲食物の臭気がひどく悪い。必ずその余り物をすすめ与える。それを平気で食う。そしてまたその余りを家に持ち帰る。(p. 150)

 

又富家。娶妻至三四人。小不相合。輒離去。産子居別室。其疾病。雖至親。不視藥。至死。殮不拊棺。雖王與貴胄。亦然。若貧人。無葬具。則露置中野。不封不植。委螻蟻烏鳶食之。衆不以爲非。淫祀諂祭。好浮圖。宗廟之祠。參以桑門歌唄。其閒。加以言語不通。貪饕行賂。行喜奔走。立則多拱手于背。婦人僧尼。皆作男子拜。此其大可駭者。

また金持ちは妻を娶るのが三、四人にもなる。すこし相合わないと、すぐに離れ去る。子を生むと居室を別にする。疾病だと至親でも、薬の世話をしない。死に至ると、殯の棺を撫でない。王や貴族の子孫といえどもそのようである。もし貧乏人で葬具がないと、野原に剥き出しに置いて塞がないし植えない。螻蛄、蟻、烏、鳶が食べるのに委せておく。衆人はそれを悪いこととは思わない。いかがわしいものを祭り、諂って祭り、仏教を好む。宗廟の祠に参るのに僧侶でしている。その間、唄を歌う。かてて加えて言葉が通じない。欲が深くて財物をむさぼり求め、賄賂をつかう。旅を好み走り回る。立つと多く手を背に拱く。婦人や僧尼の皆が男子を作ると拝みお辞儀する。これは多いに驚くべき事である。(p. 153)

 

舊史。載高麗。其俗皆潔淨。至今猶然。毎笑中國人多垢膩。故晨起。必先沐浴而後出戸。夏月日再浴。多在溪流中。男女無別。悉委衣冠於岸。而沿流褻露。不以爲怪。浣濯衣服。湅涗絲麻。皆婦女從事。雖晝夜服勤。不敢告勞。

『旧史』が記録に載せている。「高麗のならわしでは、全てが清潔である」と。今に至るもやはりそのようである。いつも中国人の垢の多いのを笑っている。だから朝起きると、必ず先に沐浴し、その後外出する。夏には毎日二度沐浴する。その多くは渓流のなかである。男女の別はない。悉く衣冠を岸に委ねておく。流れに沿って下着を浸しておかしいとは思わない。衣服を洗い、麻絲をぬるま湯の中で動かす事には、すべて婦女子が従事する。昼夜勤めても敢えて苦労を告げない。(p. 159)

 

杉扇。不甚工。惟以日本白杉木。劈削如紙。貫以采組。相比如羽。亦可招風。

畫摺扇は金銀を塗って飾りにしている。さらにその国の山林、人馬、女子の姿を絵にしている。高麗人にはできない。この畫摺扇は日本で作られたという。その贈られた着物や器物を見ると尤もらしい。(p. 205)

 

土産茶。味苦澁。不可入口。惟貴中國臘茶。幷龍鳳賜團。自錫賚之外。商賈亦通販。故邇來。頗喜飮茶。益治茶具。

土地産の茶の味は苦く渋くて口に入れられない。中国の臘茶ならびに龍鳳賜団を貴しとしている。下賜品以外に商人もまた通って来て販売している。昔から茶を飲むのをすこぶる喜んでいる。ますます茶器を調えている。(p. 216)

 

大抵麗人嗜酒。而難得佳釀。民庶之家所飮。味薄而色濃。飮歠自如。咸以爲美也。

たいていの高麗人は酒を嗜む。しかし佳く醸すのは難しい。庶民の家で飲むのは味が薄くて色は濃い。それを平気で飲み、旨いと思っている。(p. 217)

 

陶器色之青者。麗人謂之翡色。近年以來。制作工巧。色澤尤佳。

陶器の色の青いの〔高麗青磁〕を高麗人は「翡色」と言う。近年以来、作りの工芸が巧みになった。色沢がもっとも佳い。(p. 217)

 

東夷性仁。而其地。有君子不死之國。又箕子所封朝鮮之境。習俗。素稔八條之敎。其男子。出於禮義。婦人。由於正信。飮食以豆籩。行路者相遜。固異乎蠻貉雜類。押頭腁趾。辮髮橫幅。父子同寝。親族同槨。僻怪也。

東夷の性質は仁である。その地には君子不死の国がある。また、箕子が封ぜられた所であり、朝鮮の境域の習俗には、もともと八条の教えが実っている。その地の男子は礼儀に勝れており、婦人は正しい信義に由っている。飲食は高坏でもってする。路を行く者は譲りあっている。もとより昔、朝鮮の北方にあった国の蠻貉の雑類のように頭を締め括り、手足に胼胝があり、辮髪し、横幅の布裂を衣にし、父娘が同寝し、親族が棺を同じくするような卑しく怪しいのとは異なっている。(p. 269)