李承晩『独立精神』
『反日種族主義との闘争』の韓国語版には、李栄薫による『李承晩の“独立精神”を読もう』という別冊が付いている。李栄薫は2017年にソウル大経済学部教授を定年退職してから李承晩学堂の校長をしていることもあり、李承晩(1875〜65)の再評価に熱心である。ここでは第6節「亡国の政治外交史」の要約を示す。
李承晩は高宗退位要求の檄文を広めた廉で1897年に投獄され、1904年に特赦で出獄するとアメリカに渡った。『独立精神』は渡米直前に獄中で書かれ、大きく第1〜25章の前半部と第26〜51章の後半部に分かれる。前半部で李承晩は独立と自由の精神、文明・開化の論理と必然を説明し、それに立脚して世界と朝鮮の現実を批評する。後半部は1876年開港以後の朝鮮王朝の政治外交史に関する叙述から成る。その記述はどこでこんな資料を求めたのか不思議なほど実証的だ。監獄内で入手できる資料と情報には限界があり、所々にそうした限界が見られる。しかし今日の一級研究者も初めて見る資料と情報が動員されている箇所もある。
1876〜1905年の開港期に朝鮮王朝の政治外交に大きな影響を及ぼした国は清、ロシア、日本の三国だ。開港期の歴史叙述は、この三国に対する理解や評価を前提とするしかない。朝鮮の宗主国清は、一言で頑固で愚昧で柔弱な国だった。自国以外は蛮夷だという中華思想に囚われ、いざ外国勢力に攻め込まれればすぐ屈服する柔弱な国だ。その結果ロシアが黒龍江一帯を占領し、その勢力が朝鮮の国境にまで到達した。将来ロシアが朝鮮を侵略しようとすれば清は退くしかなく、朝鮮や日本の危機はもっぱら清が暗愚だったためだ。
ロシアに対する李承晩の評価が好意的でないのは、清と同じ専制政治だったためだ。ロシアの専制政治が危険なのは、民衆を抑圧し内乱を自招するだけでなく、絶えず不凍港を求めて膨張を図り隣国を服属させようとするためだ。英国をはじめとする世界の文明国家はロシアが黒海の外に出られないよう封鎖したが、これはロシアの専制政治がヨーロッパに悪影響しか及ぼさないからだ。以後ロシアは東方に目を転じシベリア鉄道を敷設し始めたが、これはウラジオストックを拠点に東アジアを支配するためだ。これは「西洋で防いだ火が東洋に飛び火した格好」だ。
こうした李承晩のロシア理解を偏見と見ることはできない。歴史は繰り返され、第2次世界大戦後、米国は共産主義の拡散を防ぐためソ連を封鎖する政策を取った。大韓民国はそうした世界情勢の一環として生まれた。今日のロシアは世界を率いる先進文明でない。自由世界に属す市民なら誰でもその点を認定するだろう。開港期のロシアに対する李承晩の評価は、やはり正当だった。わが民族が高宗皇帝が望んだようにロシアの保護下に入ったとすれば、今頃地球上から痕跡をなくしていただろう。
一方、李承晩にとって日本は、教化が不足し風習が未開だが、人に負けまいとする気概は見習うべき国だった。西洋と通商を開いた後、高官を派遣して西洋の富強で文明的な現実に触れ、国を維持するには西洋の制度を導入するしかないことを悟った。西洋から帰ってきた指導層が権力を握り民心も動かし、封建制度を廃止して皇室の権威を回復し、開明的な制度を導入した。皇帝が聡明で開化派を支持し、憲法を制定し議会を設置して民衆に国事を議論する権利を与えた。李承晩は日本の変化した姿を見ると羨望を禁じ得ないと、率直に心情を吐露している。このような李承晩の日本理解は、今日日本を侮辱し憎悪する韓国人の種族主義情緒と相当な距離がある。
日本から見て清はロシアを防御する能力がなく、朝鮮がロシアに食われれば日本は孤立して国体を維持できない。そこで昼夜民衆を教育して軍事力を育てる一方、清・朝鮮と連合してロシアを防御しようとしたが、清が愚かで日本を蔑視し結局日清戦争に至った。今日韓国の歴史学は、開港期の国際情勢に関する李承晩のこのような理解を受容できない。教科書や教養書では、日本は朝鮮との通商条約を結んだ1876年から侵略の意図を持っていたとされる。しかし2000年代に入って国際法学者らが江華島条約を再解釈したところ、不平等条約によって日本に奪われたと思われていたいくつかの権利は、実は17世紀以来朝鮮王朝が釜山倭館の日本人に与えていたものだった。朝鮮王朝は1876年の条約を、日本の要求によって旧来の交隣関係を回復する水準とみなした。朝鮮王朝が近代的国際秩序を理解したのは、欧米列強との交渉を通じてだった。
そうした新しい観点で「朝鮮は自主国であり日本国と平等な権利を保有する」と規定した江華島条約の第1条を再解釈する必要がある。これに関し既存の歴史学は、日本が清の宗主権を否定し朝鮮を侵略する意図だと解釈しているが、これは後に朝鮮が日本の植民地になった事実を前提にした結果論的な解釈だ。仮に日本の意図がそうだったとしても、実際に問うべきなのは朝鮮の主体的立場だった。既存の歴史学では、朝鮮は受動的に清と日本の角逐場に変わっただけで、歴史の主人公として朝鮮の姿は見えて来ない。
ところが李承晩は違った。李承晩は江華島条約について「朝鮮が独立権利を回復した最初の事件」だとし「わが民衆が独立を重視していれば、当然この日を全国的に祝う慶祝日にすべきだった」と主張した。ところが朝鮮は独立の何たるかを知らなかった。むしろ大国を裏切るのは道理ではないと言い、将来それによって禍根が残るだろうと心配した。李承晩が見るに「朝鮮は自主国だ」と規定した江華島条約は、東アジアの伝統的国際的秩序を再編し、その上に朝鮮・清と連合してロシアを防ごうとする日本の立場を代弁していた。日本が朝鮮にそうした利害関係を持つ限り、朝鮮の立場からは独立を遂げる絶好の機会だった。ところが独立の何たるかを知らない朝鮮は、その機会をのがしてしまった。
同じ観点から李承晩は、1887年に朝鮮王朝が米国に公司を派遣して駐在させたことを非常に高く評価した。米国をはじめとする各国が朝鮮公司を同等な礼で接待すると、各国はこの日を朝鮮が独立を頒布した日とみなした。この事件を紹介しながら李承晩は「わが国の臣民になった者はこの歴史を永遠に記念せざるを得ない」と感泣した。ところが朝鮮はこの歴史を守ることができなかった。清の圧迫を受けて駐米公使は撤収し、以後代理公使体制をようやく維持した。
当時朝鮮の朝廷では、清が派遣した袁世凱が一介の領事の地位にもかかわらず、高宗をなめてかかり盛んに内外政に干渉した。これを見た列国の外交官たちは不快に思い「朝鮮は堂々たる自主国じゃないか」と忠告したが、朝鮮の官吏は逆ギレして「われわれにどうして信義もなく上国に欠礼をしろと言うか」と憤った。清も「朝鮮は古くからわが属邦で、朝鮮自ら礼儀を守ってわれわれにそう接するもので、各国の公司が関知するところでない」とうそぶいた。そのように清の傲慢さと朝鮮の卑屈さが交差し、これを見た日本は幼子さえ清との戦争が避けられないことを知り、国民皆が昼夜その準備に没頭した。
李承晩は江華島条約から日露戦争の勃発に至るまで、政治外交史の主な事件を一つずつ掘り起こしている。独立と自由の理念に立脚した李承晩の歴史学は、今日の主流歴史学が教えてきた歴史と天地の差を見せている。その実証性はとてつもなく卓越し、例えば俄館播遷後日本とロシア間にあった北緯39度を境界とする朝鮮半島分割交渉を紹介する部分にいたっては、私としては相当な衝撃を受けたと告白せざるを得ない。われわれはいったい何を習い、何を歴史の真実だと思ってきたのか。
亡国の危機はもっぱら独立と自由の精神を知らない朝鮮の君主とその側近が自招したものだった。良い機会は何度もあった。江華島条約や駐米公使派遣がそうだった。日清戦争後、宗主国の清が退くと、高宗は百官を率いて宗廟を訪れ「これから自由と独立の基礎を堅め、特に民事と刑事の法律を明らかにして民衆の財産を保全します」と誓った。実際にそうしていれば、10年以内に国力が隆盛し民衆が富裕になり国が磐石の上に立っただろうが、執権者らが民衆の識見を開き国力の結集を図らなかったため、結局今日の悲運をむかえたと李承晩は悲しんだ。
最後の機会は李承晩も参与した独立協会と万民共同会だった。高宗皇帝が臣民の建議を受け入れて一種の議会である中枢院を設立したが、一昼夜で約束をひっくり返して独立協会を弾圧し解散させた。李承晩は「大韓の独立権利はもう失われた。それでも大韓の政府は世界の公論を聞く考えがなく、妻が夫にぶらさがるようにロシアに深く頼り、甲午以前の清がまた一つ生じた格好だ」と恨嘆した。
こうして朝鮮は何度も機会をのがした。いまや日露戦争が勃発し、明洞の日本人たちは東洋の小国が世界最大のロシアを撃破してやろうと壮語している。一方で朝鮮の処地は沈没直前の難破船に等しい。遅ればせながら今からでも人民が自由の精神を知り、二千万の同胞が皆死んでひとりだけ生き残っても良いという独立の気概を育てる中で、世界の公論が徐々にわれわれに友好的になるのを待つしかない。李承晩はそういう一片の希望を残しながら、最後の第51章を閉じている。

引用文献
이영훈외『반일 종족주의와의 투쟁 —— 한국인의 중세적 환성과 광신을 격파한다』미래사,2020(李栄薫『反日種族主義との闘争』文藝春秋,2020)