『反日種族主義との闘争』の刊行
『反日種族主義』の続編である『反日種族主義との闘争』は、2020年5月に刊行された(日本語版は9月)。各章は冒頭で『反日種族主義』への批判を紹介し、それに反論する形で書かれている。
李栄薫の第1〜3章はハンギョレ新聞に掲載された尹明淑の「稼ぎのいい個人営業者だとは…日本軍慰安所制度作り少女を踏みつけたのは誰か」(日本語版は2019年9月6日付)への反論である。尹明淑は「日本軍は公娼制度を利用して慰安婦を強制動員した」と主張した。しかし日本軍が斡旋業者にウソと甘言による女性の誘拐を使嗾し総督府が容認したから強制動員だというのは、拡大解釈が過ぎる。斡旋業者の多くは本人の就業理由書、戸主の就業同意書、戸籍謄本、印鑑証明書、警察署長の旅行許可証といった必要書類を揃え、自発的に慰安婦になったという形式を整えていたため、当時の法律では立件できなかっただろう。また家族を売るのは家父長の合法的権利だった。これを「本人の意思に反する」云々して後世の歴史家が裁こうとするのは横暴である。
尹明淑は、李栄薫が米軍・韓国軍慰安婦に言及したのは、日本軍慰安婦への注目を逸らすための策略だと批判した。しかし米軍・韓国軍慰安婦には国家権力による統制がなかったため、性病や妊娠の被害が多かったのは事実である。こうした「我々の中の慰安婦」の問題から目を逸らすのは、偽善以外の何ものでもない。
尹明淑は、慰安婦の文玉珠が蓄えた2万6500円は、ビルマのインフレのため20円程度の価値しかなかったと書いた。これは当時の通貨制度に対する無知によるもので、日本は最後まで等価固定為替制度を維持した。1944年5月までは、朝鮮への数万円程度の送金は許可を取れば問題なく行えた。それ以後は制限が強化され、終戦直後に連合軍は貯蓄の引き出しを禁じた。このため慰安婦全員が貯金を持ち帰れたわけではないが、全員が手ぶらで帰ってきたのでもない。
李宇衍の第4〜5章は、朝鮮人労務者の戦時動員に関する田剛秀・金敏喆・鄭恵瓊らの批判にまとめて答えている。彼らは「出動は全て拉致と同じ状態だ。なぜならもし事前にこのことを知らせるならば、皆逃亡してしまうからだ。それで夜襲、誘出、その他各種の方策をめぐらせて人質のような拉致状態の事例が多いのだ」という内務省嘱託小暮泰用の報告を「強制動員」の根拠にあげたが、そうした状況が一般的だったとは言えない。募集や官斡旋で来日した者には「日本に来たかったから来た」と証言した者が多くいた。1939〜45年に労務動員と無関係の自由渡航による朝鮮人入国者は165万人を超え、募集・官斡旋の2.8倍に達した。労務動員された朝鮮人の6割以上は炭鉱・鉱山に送られたが、3Kの人気がない職場で抵抗も多かった。そのため募集・官斡旋の過程で一部強制があった。鄭恵瓊が言うように脱出は多かったが、彼らは朝鮮に逃げ帰ったのではなく、日本でより条件の良い職場を見つけて逃亡した。
田剛秀は、朝鮮人の負傷率が高かったのに差別はなかったと言うのは矛盾だとした。しかし戦時中の炭鉱では坑内夫・採炭夫・支柱夫が特に不足しており、動員された朝鮮人は坑内作業に回された。朝鮮人は作業に熟練していなかったため、一緒に作業する日本人より災害率が高かった。田剛秀も金敏喆も鄭恵瓊も、朝鮮人の賃金が日本人より低かったから「民族差別だ」と断言した。しかし賃金は年齢や勤続年数や職階等によって決まるもので、若く経験のない朝鮮人の賃金が低かったのは当然である。また単身者が多い朝鮮人と異なり、日本人には扶養家族がいて超過勤務に励んだことも格差につながった。一方、単身者が多い朝鮮人は職場の食堂で食事し、会社の制度を利用して貯蓄したため、それらを天引きした手取り金額が日本人より少ないのは当然だった。
朱益鍾の第20章は許粹烈への反論に当てられている。許粹烈によると、植民地期の開発には極端な民族差別があり、土地も生産手段も開発の果実もほとんど日本人が独占し、朝鮮人は局外者に過ぎなかったという。許粹烈による一人当たり所得の推計値は、金洛年らの推計値より大幅に低い。米の収穫量も、金洛年らは1911〜39年に123%増(年率2.9%)と推計したのに対し、許粹烈は1911〜42年に52%増(年率1.4%)と推計した。許粹烈『開発なき開発』(2005)の初版では、米増産分の15%しか朝鮮人に帰属しなかったとされた。しかし仮定の間違いを金洛年に指摘され、2011年版では数値を訂正したが、なぜか「開発利益の日本人独占」という結論は変えなかった。許粹烈によると、1926〜39年の工業生産額増分の32.2%は朝鮮人に帰属した。それはおおむね正しいが、工業部門の果実の2/3を日本人が分捕ったことを「独占」とは言えない。朝鮮人が局外者に過ぎなかったという許粹烈の主張は、彼自身のデータによって否定される。実際に起きたことは、朝鮮人も関与し、その果実も一部享受する植民地開発だった。
車明洙の第21章は、身長・体重の増加に触れている。Kim&Park(2011)は日本時代の行旅死亡人(行き倒れ)6348人の身長に対する重回帰分析から、1920年代生まれは1910年代生まれより身長が2cmほど高かったことを示した。1998年および2001〜04年国民健康栄養調査から20歳時点の身長・体重を推計したところ、男女とも日本時代を通じて身長・体重とも増加したことが示された。許粹烈が言う通り、日本時代に非熟練労働者の実質賃金は停滞していた。にもかかわらず身長・体重が増加したのは、近代医学の導入と衛生施設の改善による。これにより平均寿命も延びた。実質賃金は不変でも、寿命が延びれば生涯所得も増えるので、広い意味では生活水準の向上と言ってよい。

引用文献
이영훈외『반일 종족주의와의 투쟁 —— 한국인의 중세적 환성과 광신을 격파한다』미래사,2020(李栄薫『反日種族主義との闘争』文藝春秋,2020)