日本が去ったことによる混乱
1945年8月に日本が無条件降伏すると、朝鮮はアメリカとソ連に分割占領され、台湾は中華民国に接収された。米軍政下の南朝鮮では民族主義者と共産主義者の対立が激化し、下層農民は左派に、富裕農民と都市住民は右派に加担した。済州島は1945年から左派が実質的に支配しており、極右の柳海辰知事に反発した。柳海辰が朝鮮西北部から招来した右翼青年らの横暴は、1948年3月の人民蜂起のひきがねとなった。102回の戦闘が起こり、1.5〜2万人が死亡した。
大韓民国は1948年8月15日に、朝鮮民主主義人民共和国は同年9月9日に独立を宣言した。北朝鮮では官僚・実業家・宗教家といった日本時代の指導層は徹底的に排除された。韓国でも国会が反民族行為処罰法を制定し、それにもとづき反民族行為特別調査委員会が1949年1月から活動を開始した。しかし李榮薰によると、親日派だらけの軍・警察の状態から見て特委には最初から勝ち目がなく、8月には李承晩大統領によって解散させられた。

カミングスによると、1949年初頭にCIAは韓国内のゲリラを3500〜6000人と推算していた。特に全羅道と慶尚道で左翼活動が活発だった。左翼ゲリラは警察署を襲撃し、夜中に住民を招集して演説し、兵士を募集し食糧を徴発した。日本陸士出身の丁一權大佐(後に国務総理)は、1949年春に智異山のゲリラ掃討に成功した。米軍の支援により、1950年春までに南部のパルチザンは壊滅した。
台湾行政長官として派遣された陳儀は、台湾総督府の資産接収作業から本省人を完全に排除し、国民党がやりたい放題収奪した。終戦とともに大量の日本留学生・軍人・軍属・軍夫が帰還し、国民党政権の本省人排除もあって失業者が急増した。治安も急速に悪化し、日本時代の法治国家から一転して伊藤潔が言うところの「無法地帯」になった。国境内戦中の中国経済は悪性インフレが猛威を振るい、台湾から大量の米を中国に移出したため、1945年11月には早くも深刻な米不足になった。1946年初頭には物資欠乏とインフレで、台湾経済は破産寸前となった。
1946年2月28日、台北で取締り職員が煙草売りの寡婦に暴行したことから、暴動が発生した(二・二八事件)。陳儀は戒厳令の取り下げ等で時間を稼ぎ、3月8日に援軍が到着すると徹底的な弾圧に出た。陳儀政府を批判した本省人エリートは裁判抜きで処刑され、1.8〜2.8万人の死者が出たと推定されている。

国共内戦の帰趨が明らかになった1948年末、蒋介石は陳誠将軍を台湾省政府主席に任命した。長男の蒋経国、次男の蒋緯国も台湾に入った。1949年2月には海峡が封鎖され、5月には戒厳令を施行し、6月には新台湾元(NT$)へのデノミネーションを断行し、台湾経済は中国と断絶した。1949年1月に総統を辞した蒋介石は台湾に入り、10月に中華人民共和国の建国が宣言されると台湾移転を公式に宣言した。国民党政権は農地改革を進めたが、外省人の食糧を確保するため食糧を強制的に買い上げる「随征徴購」を実施し、「米肥バーター制」で国際価格の二倍の肥料を農民に売りつけた。また「分糖制」によってサトウキビの約半分を徴収した。石田浩によるとこれら農民から吸い上げた金は大陸反攻のための軍事費に費やされ、開発には回らなかった。
混乱期の被害は台湾より朝鮮の方がはるかに激甚だった。1950年6月に北朝鮮軍が一斉に38度線を越えて南侵すると、韓国軍と在韓米軍は慶尚道に追い詰められた。9月に米軍を主体とする国連軍が仁川から上陸し北朝鮮軍を中国国境付近まで押し返すと、10月には中国人民解放軍が参戦し国連軍を再び38度線まで押し戻した。1953年7月に休戦協定が締結されたが、南北合わせて数百万人が死んだ末にもたらされた結果は、38度線が少し歪んだだけだった。
休戦直後の韓国経済は悲惨で、一人当所得は1910年代の水準に後退していた。税金を徴収することもままならず、国家財政の7割が米国の援助物資で賄われた。政治と社会に不正腐敗が蔓延し、高級将校の軍事物資横領によって兵士9万人が凍死した。李承晩は韓国を農業国にしようとする米国の意向を拒否し、独自工業化を強行した。カミングスによると李承晩は米国から補助を引き出す名人で、1950年代末までに引き出した総額は韓国の輸入総額の5/6を占めた。1950年代の韓国の国家予算は、100%援助資金だけで成り立っていた。
台湾では米国の援助によって、一足先に経済成長が始まっていた。朝鮮戦争が勃発すると米国は台湾への経済援助を再開し、1951〜65年までの15年間に15億ドルを支援した。国民党政権は自力では台湾経済を再建できず、電力、交通運輸、水利灌漑いずれも米国の支援を仰いだ。薛化元によると農業生産は一時は1938年の半分の水準まで落ち込んだが、1953年には戦前の水準を回復した。1950年代には日本が米・砂糖の主な輸出先で、国民党政権も熱心に支援した。米国の援助と好調な農業に支えられ、1950年代の台湾経済は順調に成長した。伊藤潔によると1950年代のGNPの平均成長率は8.3%で、農業が工業化の産婆役を果たした。
引用文献
石田浩『台湾民主化と中台経済関係−政治の内向化と経済の外交化−』関西大学出版部,2005.
伊藤潔『台湾−四百年の歴史と展望』中公新書,2012.
李榮薰(永島広紀訳)『大韓民国の物語−韓国の「国史」教科書を書き換えよ』文藝春秋,2009.
薛化元『臺灣開發史・修訂五版』三民書局, 2013.
Cumings, Bruce, Korea's Place in the Sun - A Modern History, Updated Edition, 2005(ブルース・カミングス(横田安司・小林知子訳)『現代朝鮮の歴史—世界のなかの朝鮮』明石書店, 2003).