juraian’s blog

東アジア史、ナショナリズム、反日言説に関する個人研究

日朝中から見た日朝中 (4) 円仁『入唐求法巡礼行記』

円仁(足立喜六訳注・塩入良道補注)『入唐求法巡礼行記』東洋文庫157,442, 平凡社, 1970,1985.

 円仁(794~864)は天台宗の僧侶で、最澄に師事した。838(承和5, 開成3)年7月、三度目の渡海で揚州に漂着した。天台山行きを願うが許可されず、不法滞在を決意し、新羅人の助けを借りて赤山浦法花院にとどまった。840(承和7, 開成5)年2月に赤山浦を発ち、4月に五台山に到着。同年7月五台山から長安に向かい8月に到着。大興善寺の元政和尚、青竜寺の義真から灌頂を受けた。帰国願いを拒否され続けたが、842(承和9, 会昌2)年10月、会昌の廃仏で国外追放となった。845(承和12, 会昌5)年、楚州から乗船しようとしたが拒否され、赤山浦で便船を待った。847(承和14, 大中1)年、新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国した。原文は国史編纂委員会の韓国史データベース (http://db.history.go.kr) による。

 

行塩官舩積塩或三四舩或四五舩雙結續編不絶数十里相随而行乍見難記甚為大奇

塩官船あり。塩を積むもの、或いは三、四船、或いは四、五船、双べ結び続け編して絶えず。数十里従って行く。乍見〔始めて見ることで思いがけなく〕して記し難く、甚だ大奇(ふしぎ)と為す。 (1巻, p. 25)  

 

廿九日暮際道俗共燒紙錢俗家後夜燒竹与爆聲噵万歲街店之内百種飯食異常弥滿日夲國此夜宅庭屋裏門前到䖏盡㸃燈也大唐不尒但㸃常燈不似夲國也

[十二月]廿九日〔小月で大晦日にあたる〕、暮際(くれぎわ)、道俗は共に紙銭を焼く。俗家は後夜〔二時ごろ〕に竹を焼き〔爆竹をあげ〕爆声と与(とも)に万歳と導(い)う。街店の内は百種の飯食常と異なりて珍満す。日本国は此の夜宅庭・屋裏・門前到る処に尽(ことごと)く燈を点ずるなり。大唐は爾(しか)らず。但常燈を点ず。本国に似ざるなり。(1巻, p. 74)  

 

十五日夜東西街中人宅燃燈与夲國年盡晦夜不殊矣寺裏燃燈供養佛兼奠祭師影俗人亦尒當寺佛殿前建燈楼砌下庭中及行廊側皆燃油其燈盞数不遑計知街裏男女不惮深夜入寺看事供燈之前隨分捨錢巡者已訖更到餘寺者礼捨錢諸寺堂裏并諸院皆競燃燈有來赴者必捨錢去

[一月]十五日、夜、東西街中の人宅は燃燈(ねんとう)す。本国の年尽(つごもり)、晦夜(みそか)と殊ならず。寺裏も燃燈して仏に供養し、兼ねて師影を奠祭〔供えまつる〕す。俗人も且(また)爾(しかり)。当寺の仏殿の前には燈楼を建つ。砌〔石だたみ〕下、庭中及び行廊の側には皆油を燃やす。其の燈盞(さん)〔灯芯を入れた油皿〕の数は計り知るに遑(いとま)あらず。街裏〔町中〕の男女は深夜を憚らず寺に入って〔燈灯の〕事を看る。供燈の前には分に随って銭を捨す。巡看〔見まわる〕して已(すで)に訖(おわ)れば、更に余寺に到り、看礼して銭を捨す。諸寺の堂裏並びに諸院も皆競(きそ)うて燃燈す。来たり赴ものあれば必ず銭を捨して去ゆく。(1巻, p. 77)  

 

其赤山純是巖石高秀䖏即文登懸清寕郷 赤山村山裏有寺名赤山法花院本張寶高初所建也長有㽵田以宛粥飰其㽵田一年淂五百石米

其の赤山は純(もつぱ)ら是これ巌石高く秀でたる処、即ち文登県清寧郷赤山村なり。山裏に寺あり、赤山法花院と名づく。本(もと)張宝高が初めて建てし所なり。張の荘田あり。以って粥飯に宛つ。其の荘田は一年五百石の米を得。(1巻, pp. 175-176)  

 

唐國風法官人政理一日兩衙朝衙晚衙湏聼皷聲方知坐衙公私賔客候衙時即淂見官人也

唐国の風は法として官人の政理〔政務〕は一日両衙なり。朝衙晩衙は須く鼓声を聴いて方に坐衙〔長官の執務〕を知るべし。公私の賓客は衙時を候(ま)って即ち官人に見(まみゆ)るを得るなり。 (1巻, p. 231)  

 

十五日發行十五里到平徐村程家断中主心慇懃齋後行十五里到萊州々城東西一里南北二里有餘外廊縦橫各應三里城内人宅屋舎盛全

十五日、発す。行くこと十五里、平徐村の程家に到って断中す。主の心は慇懃なり。 斎後行くこと十五里、莱州に至る。 州城は東西一里、南北二里余。外廓の縦横は各応(まさ)に三里なるべし。城内の人宅、屋舎は盛全〔隆盛〕なり。(1巻, p. 270)  

 

十八日行五里過膠河渡口 萊州界内人心麁剛百姓飢貧

十八日、行くこと五里、膠河の渡口〔昌邑県新河鎮?〕を過ぐ。莱州界内の人心は麁剛〔あらっぽい〕にして百姓は飢貧なり。(1巻, p. 271)  

 

指路正西入谷行過高嶺向西下坂方淂到醴泉寺菓薗喫茶向南更行二里到醴泉寺断中齋後巡礼寺院礼拜誌公和上影在瑠璃殿内安置戶柱堦砌皆用碧石搆作寶幡奇彩盡世珎奇鋪列殿裏

高嶺を過ぎ、西に向かって坂を下れば方(まさ)に醴泉寺に到るを得。果園にて喫茶して、南に向かい更に行くこと二里、醴泉寺に到って断中す。斎後寺院を巡礼し、誌公和上の影〔像〕を礼拝す。瑠璃殿内に在りて安置す。戸柱、堦砌〔階段の石だたみ〕は皆碧石を用いて構作す。宝幡〔装飾用の旗〕は奇彩、世の珍奇を尽くして殿裏〔内〕に鋪列〔つらね列す〕す。(1巻, p. 279)  

 

向正北行廿里到南接村劉家断中主人従來發心長設齋飯供養師僧不限多少入宅不久便供飯食婦人出來慰客數遍

正北に向かい行くこと廿里、南接〔楼?〕村の劉家に到って断中〔昼食〕す。主人は従来発心して長く斎飯を設けて、師僧に供養することを多少を限らず。宅に入って久しからず、便ち飯食を供せり。婦人出で来たって客を慰むること数遍なり。(1巻, p. 284)  

 

尋常街裏被斬尸骸滿路血流濕圡為泥看人滿扵道路天子時時看來旗鎗交撗遼乱見說被送來者不是唐叛人但是界首牧牛耕種百姓枉被捉來國家兵馬元來不入他界恐王恠无事妄投无罪人送入京也兩軍健兒每斬人了割其眼肉契諸坊人皆云今年長安人喫人

尋常〔戦場でない〕の街裏に斬らるる尸骸(しがい)は路に満ち、地は流れ土を湿(うるお)して泥と為(な)る。看る人は道路に満つ。天子は時々着来し、旗や鎗は交横して遼〔=瞭〕乱たり。見(げん)に説く〔聞くところでは〕、送られて来たるものは是(これ)唐の叛人ならず。但(ただ)是(これ)界首の牧牛・耕種の百姓、枉(ま)げて捉われ〔罪なく刑を被る〕来たるなり。国家の兵馬は元来他の界〔敵境〕に入らず。王が事〔軍事行動〕無きを恠(あやし)むを恐れ、妄りに無罪の人を捉え送って京に入るなりと。両軍の健児〔募兵〕は人を斬る毎に、了(おわ)れば其の眼や肉を割いて喫(くら)う。諸坊〔坊街=市街中〕の人は皆云う、今年、長安の人は人を喫うと。(2巻, p. 218)  

 

山村縣人飡物麁硬愛喫塩茶粟飯澁呑不入喫即胷痛山村風俗不曽煑羹喫長年唯喫冷菜上客慇重極者便与空餅冷菜以為上饌

山村の県人の飡物〔たべもの〕は麁硬(そこう)にして、愛(この)んで塩茶、粟飯を喫(くら)う。渋くして呑するも入らず。喫えば即ち胃痛む。山村の風俗として曾て羹(あつもの)を煮て喫わず。長年唯冷菜〔つめたい料理〕を喫う。上客の慇重を極むる者には便ち空餅、冷菜を与えて以って上饌〔上等の膳部〕となす。(2巻, p. 284)   

 

唐國僧尼夲來貧天下僧尼盡令還俗乍作俗形无衣可着无物可喫銀艱窮至甚凍餓不徹便入郷村劫奪人物觸䖏甚多州縣捉獲者皆是還俗僧囙此更條流已還俗僧尼勘責更

唐国の僧尼は本来貧し。天下の僧尼は尽く還俗せしめられて乍(すなわ)ち俗形となる。衣の着すべきなく、物の喫(くら)うべきなし。艱窮至甚〔苦しみ甚大〕にして凍餓〔飢えこごえる〕は徹(おさ)まらず。便(すなわ)ち郷村に入りて人物を却奪し、〔法に〕触るる処甚だ多し。州県の捉獲するものは皆是還俗僧なり。此に因って已(すで)に還俗したる僧尼を条流して勘責すること更なり。 (2巻, p. 298)