
参謀本部のウェーベリ中佐は1889年5月18日に慶興を出発し、元山、平壌を経て7月9日にソウルに到着した。この報告は1958年にモスクワで刊行された『朝鮮紀行集1885〜1896年』に収録された。編者のゲ・デ・チャガイ(Galina Davydovna Tyagay, 1922〜2006)はソ連科学アカデミー東洋学研究所の研究員で、19世紀末に朝鮮を旅行したロシア人による旅行記を編纂し、東洋文献出版所から出版した。序文はマルクス=レーニン主義史観に染まっており、封建貴族および帝国主義勢力(特に日本)による人民の収奪と、それに対する抵抗運動に関心が集中している。
平壌の町は、高い壁に取巻かれた多角形の内部に密集する一二、〇〇〇世帯の朝鮮人からなる。壁の総延長は一〇露里を下らない。軒を接した家屋が混沌たる無秩序の中でひしめきあう。家屋の間は狭い路地が迷路のように走っていて、人間の大群が、蟻塚における蟻のようにうごめいている。特に驚かされるのは、通りの真中で仔豚どもと戯れる子供達で、通行人の足元を這い回っている。 (p. 136)
朝鮮政府は現有の軍事力を全く頼りにすることができない。周知の通り、武器を担える朝鮮男子は全員が兵役義務を負っている。しかしながら、多少とも資格を有する指揮官や組織編制を完璧に欠如するため、これを戦闘力と見なす訳にはゆかないのだ。その意味では、中国軍よりも始末におえない。 (p. 160)