juraian’s blog

東アジア史、ナショナリズム、反日言説に関する個人研究

日朝中から見た日朝中 (16) 金仁謙『日東壮遊歌』

金仁謙(高島淑郎訳注)『日東壮遊歌』東洋文庫662, 平凡社, 1999.

 金仁謙(1707~72)は朝鮮の文官で、1764(宝暦14)年に来日した朝鮮通信使に従事官の書記として随行した。通信使は1763(宝暦13)年9月に釜山を出航し、翌1764年2月に江戸に着いた。金仁謙は将軍家治への謁見に参列せず、3月に江戸を発ち、6月に釜山に帰着した。この回が、江戸まで往復した最後の通信使だった。また朝鮮通信使の紀行文で、ハングルで書かれているのは本書だけらしい。

 

11月29日 壱岐・勝本で (pp. 186-187)

丘の上には毎日/倭人の女どもが集まり

乳房丸出しにして指差しながら/首を振っておいでおいでをする

尻をはだけて叩き/手を振って招く

裾をまくって下を見/呼んだりもする

恥じらいというものまったく見られず/風俗は淫らである

 

1月22日 大坂で (p. 241)

美濃太守の宿所の傍らの/高殿にのぼり

四方を眺める/地形は変化に富み

人家もまた多く/百万戸ほどもありそうだ

我が国の都城の内/東から西に至るまで

一里といわれているが/実際は一里に及ばない

富貴な宰相らでも/百間をもつ邸を建てることは御法度

屋根をすべて瓦葺きにしていることに/感心しているのに

大したものよ倭人らは/千間もある邸を建て

中でも富豪の輩は/銅をもって屋根を葺き

黄金をもって家を飾りたてている/その奢侈は異常なほどだ

 

1月22日 大坂で (p. 242)

この良き世界も/海の向こうより渡ってきた

穢れた愚かな血を持つ/獣のような人間が

周の平王のときにこの地に入り/今日まで二千年の間

世の興亡と関わりなく/ひとつの姓を伝えきて

人民も次第に増え/このように富み栄えているが

知らぬは天ばかり/嘆くべし恨むべしである

 

1月22日 大坂で (p. 242)

この国では高貴の家の婦女子が/厠へ行くときは

パジを着用していないため/立ったまま排尿するという

お供の者が後ろで/絹の手拭きを持って待ち

寄こせと言われれば渡すとのこと/聞いて驚き呆れた次第

 

1月27日 枋方~淀間で (p. 248)

河の中に水車を設け/河の水を汲み上げ

その水を溝へ流し込み/城内に引き入れている

その仕組みの巧妙さ/見習って造りたいくらいだ

 

1月27日 京都で (p. 251)

沃野千里を成しているが/惜しんで余りあることは

この豊かな金城湯池が/倭人の所有するところとなり

帝だ皇だと称し/子々孫々に伝えられていることである

この犬にも等しい輩を/皆ことごとく掃討し

百里六十州を/朝鮮の国土とし

朝鮮王の徳をもって/礼節の国にしたいものだ

 

2月3日 名古屋で (p. 264)

わけても女人が/皆とびぬけて美しい

明星のような瞳/朱砂の唇

白玉の歯/蛾の眉

芽花の手/蝉の額

氷を刻んだようであり/雪でしつらえたようでもある

人の血肉をもって/あのように美しくなるものだろうか

趙飛燕や楊太真が/万古より美女とのほまれ高いが

この地で見れば/色を失うのは必定

越女が天下一というが/それもまこととは思えぬほどである

これに我が国の衣服を着/七宝で飾り立てれば

神仙鬼神もさながらと/恍惚感いかばかりだろう

 

2月16日 江戸で (p. 282)

楼閣屋敷の贅沢な造り/人々の賑わい男女の華やかさ

城壁の整然たる様/橋や舟にいたるまで

大坂城〔大坂〕、西京〔京都〕より/三倍は勝って見える

左右にひしめく見物人の/数の多さにも眼を見張る

拙い我が筆先では/とても書き表せない

三里ばかりの間は/人の群れで埋め尽くされ

その数ざっと数えても/百万にはのぼりそうだ

女人のあでやかなること/鳴護屋〔名古屋〕に匹敵する